唐九郎と魯山人【下】

          瀬戸窯の窯焚  「魯山人は素人やから瀬戸窯は焼けんのやろ」と、初窯失敗の報を受けた唐九郎は数日後、悠々と様子を見に来た。「星ヶ岡窯に瀬戸風の窯を築窯」と聞き京都からきた宮永東山は、「こんな勾配の窯はいかん」という。「宮永さんは京都の窯しか知らんからじゃよ。京都の傾斜のあまい窯で、ナマナマしく焼いた人にはちょっと扱いにくいんじゃ」「でもここは山間だから、湿気もだいぶ多かったようだ」と東山。「湿気も火がいきゃァ、みんな蒸発しちゃうから大丈夫なんじゃ。急なほうが薪も得だし、熱も早くあがるんじゃ」次の窯、唐九郎は窯焚役を勝って出た。 瀬戸式五連房登窯(星が岡窯)美と食の天才「魯山人」(講談社ARTBOX) 一の間、二の間では染付などの磁器を詰め、三の間に志野、織部、黄瀬戸作品を匣鉢を使って窯詰して一窯、焚いた。二日ほど冷まして窯出しの日を迎えた。魯山人は窯出しも唐九郎に任せてある。なんと、念願の志野、織部、黄瀬戸が焼き上がり、染付も焼くことができた。志野は白天目のように薄いが、織部の調子は良い。機嫌が良くなった魯山人は唐九郎を食事に誘った。唐九郎は魯山人に問う。「染付や色絵、三島、絵瀬戸、志野、織部など色々な陶器を焼くが何が一番好きかな」「なんでも良いものは好き、昔は染付、今は織部かな。朝鮮の三島は好きだが、萩や楽は茶陶一本やりやから好きになれん。ノンコウまでの楽はいいが」「ぼくも日本の茶道が型にはまってからのものは嫌いじゃ。でもここの三島の土はいいねえ」「あれは朝鮮の鶏龍山で掘っ…

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魯山人対唐九郎【上】

昭和の陶芸界に強烈なインパクトを与え続けてきた北大路魯山人と加藤唐九郎‥‥「自然は芸術の極致であり、美の最高である。」と自然のサイクルを愛おしみ “器は料理の着物だ”と器の容を創造して芸術の域まで押し上げた北大路魯山人。 北大路魯山人 蟹絵平向付  かたや加藤唐九郎は「一にも土、二にも土、三にも土、陶工の生活は土にあけ土にくれる土の生活だ」と桃山陶再現のために土探しにのりだし、志野、織部を中心とした茶陶を目指して“野の陶人” “炎の唐九郎”などと、言わずと知れた名匠である。ともに怒涛の生涯を送り、名作を残した不世出の芸術家でもある。二人は15歳の年の差もあったが、密度の濃い交流もあった。魯山人の絶筆は死の直前、病床にて書いた「京都上賀茂別雷神社社家 北大路」‥‥当時まだ発売されて間もないマジックペンで看護婦に聞かれるままに記した。最後まで新しいもの好きな魯山人らしい一面をのぞかせている。明治16年(1883)3月、代々つづく社家に生まれたことに誇りをもっていたようだが、神職世襲制の廃止によって社家北大路家は困窮を極め、「俺は生みの母親から乳をもらったことはない。キリストと同じで、ムシロの上に産み落とされて放り出されたようなものだ」と後年語っている。生まれてすぐに比叡山を越えた近江坂本の農家S家に養子にだされ、その後、養家を転々として孤独でみじめな少年時代を送った。福田家の養子となって、近くの梅屋尋常小学校(4年間)に入学できたが、養家の仕事も手伝いあまり学校へは行けなかったようで、目立たぬ大人…

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魯山人 刻字看板「呉服」(安藤家)大正6年制作

ボスニアの首都でおきたサラエボ事件に端を発して大国が参戦して第一次世界大戦が勃発、日本は日英同盟により連合国軍に加わっていた。魯山人は近江長濱を皮切りに京都、北陸での食客時代という篆刻や刻字看板などの仕事を「大観」と号してから3年経った大正5年(1916)、33歳となり、『北大路魯卿』と号するようになった。魯山人ワールド「小蘭亭」内部 男性の洋装が当たり前になってきた大正時代だが、北國街道に面する長濱に平安時代ころから貴賤の別なく成人した男子が着用したといわれている烏帽子をかぶり、麻の帷子(かたびら)にくくり袴姿という、自らの成長を誇示するかのように気取った姿で現れた。魯卿ははじめて食客として長浜との縁を結んでくれた紙文具商『紙平』の河路豊吉に挨拶をして、その向かい側にある安藤家のベンガラ格子の玄関をくぐった。当時の安藤家は12代目である。当主の安藤與惣次郎は魯山人芸術に心酔し、昨年来、「小蘭亭」の扁額のほか天井絵・襖・障子・地袋などの内装を依頼し、引き続き仕事をするために魯卿を呼んでいた。まず母屋の長押に掲げる扁額「清閑」を彫琢することになった。長江のほとりに潯陽(じんよう)楼が建っている。中唐の詩人・白居易(772―846)は『潯陽楼に題す』という詩句の中に「詩情も亦た清閑なるを」とある。また芭蕉の「おくのほそみち」でも立石寺は「清閑の地なり」といわれた。“清閑”とは世のごたごたを離れて静かなこと。すがすがしくもの静か。俗事にわずらわされず静かなこと。 「清閑」これらを深く理解する魯卿は「清…

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魯山人の「ほしがおか窯」。

魯山人は大正15年の秋から暮れにかけて鎌倉山崎に1500坪の広大な土地を借りて住居を建て、京都風の登窯「ほしがおかがま」を築窯した。魯山人邸から東南に拓ける”倉久保の谷戸”の両側は樹林に囲まれ田圃や湿地帯が拡がる。「谷戸(やと)」は「谷津(やつ)」「谷地(やち)」ともいわれ、山裾のいたるところから清水が染みでるような特有の土地柄であった。星岡窯築窯の現場へ行くには鎌倉街道の小袋谷から山崎の神明神社前に向かい、ここから松林に覆われた山を越えなくてはならない。しかも急坂で、狭い切り通しだった。この山は鎌倉石という砂岩の岩場をくりぬいただけの切通しで、大八車も通ることができず、背負って資材を運んだ。数年後、不便を感じた魯山人はこの岩山を手掘りで十メートルほど掘り下げて、新たな切通しを造らせた。臥龍峡白衣が魯山人「魯山人窯芸研究所 星岡窯 鎌倉に生る」昭和二年一〇月(星岡茶寮)より アメ車のような大きな自動車や人力車を通れるように道幅も広くしたこの切通しを魯山人は『臥龍峡』と名づけ、慶雲館の完成間もない昭和3年6月27日、久邇宮殿下を慶雲館に迎えることとした。 魯山人が相模国高座郡御所見村用田(現在の神奈川県藤沢市用田)の伊藤家の屋敷「慶雲閣」を移築できたのは久邇宮邦彦王(くによしおう)の計らいである。昭和二年二月、なだらかな丘に京風の登窯が完成した。まず大正十四年秋に東山窯にいた川島礼一が主となって築きはじめ、全長は18㍍、幅8.5㍍ほどの三連房の京型登窯とした。もとより星岡茶寮(ほしがおかさりょう…

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直木美佐

親しくしていた直木美佐さんが5月13日に急逝された。デザイン関係の会社に勤められていた美佐さんが楽茶碗を制作するようになったのはご尊父の直木友次良先生の影響である。古美術、とくに乾山の研究家でもあった直木友次良は日本画家であり、名利にこだわらず我が道を行く楽茶碗の名手でもあった。日常の会話からも、芸術に美術工芸に精通した素敵な親娘であった。直木友次良の古美術雑誌「新しい眼」3号の「琳派特輯」の表紙。題簽:小林古径  直木友次良作  黒楽「寿老人」茶碗1981年よりしぶや黒田陶苑にて個展開催。1989年10月、「直木友次良展」出品作。 2022年2月16日から21日まで日本橋三越本店 本館6階 特選画廊に於て「直木美佐茶陶展」が開催された。三越本店では三年ぶり11回目の個展‥‥毎回のように推薦文を書かせていただいていた。昨年の個展での拙文である。 手練の技に心を砕く 茶の湯が侘茶とともに流行した天正の昔‥‥茶道具の拝見を通じて数寄者としての目利きを養う秘伝書とされる『山上宗二記』に「唐物茶碗はすたれ、近頃は朝鮮の高麗茶碗、今ヤキ茶碗、瀬戸茶碗など形さえよければ茶道具としてよい」とある。〝今ヤキ茶碗〟とは天正年間に突如はじまった楽茶碗のこと。利休との思想が一致した秀吉が聚楽第を建設した時に掘り出された土を使って、渡来茶碗のような轆轤で作られたものでなく、手造りし、急熱急冷という新技法であった。楽茶碗を愛し制作される楽土会・志土呂会を主宰されておられた叔父の江川拙斎、そして父・直木友…

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浜本洋好 2023  斑唐津

博多から唐津に向かうと筑前前原(まえばる)を通る。ここは大陸との交流も盛んで、日本最大の銅鏡が発掘された「伊都国」が弥生時代に栄えたところだ。 初期唐津発祥の地で斑唐津を追及する浜本洋好先生はこの地の肥沃餅藁を使っている。現代では台風に強い背の低いうるち米に頼っているが、この手の藁は硬く自分好みの斑唐津には不向きだと浜本洋好はいう。 古代から続く丈の高い餅藁を栽培している前原の農家を探して種籾を分けていただき、地元・北波多の農家に栽培してもらっている。収穫後、藁を干してから穂は農家に渡し、焼き過ぎて灰色にならないように茎を焼いて炭状の藁灰を作り、これに土灰と長石を混ぜて斑釉を作っている。窯詰め時には真っ黒い茶碗も、高温焼成で柔らかい釉調の斑唐津が劇的に誕生することに命を懸けている希少な陶芸家である。【唐津 浜本洋好作陶展】Exhibition of HAMAMOTO Hiroyoshi斑唐津茶碗  見込2023年2月24日(金) ~ 2月28日(火)Exhibition : February 24 to February 28, 2023 会場:しぶや黒田陶苑 💠京橋には魯山人ゆかりの地があります💠 魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地  魯卿あん‥‥Rokeian 〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    TEL: 03-6228-7704 FAX: 03-6228-7704営業時間:11:00~18:00(日・祭日休)Email: rokeian-kurod…

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自分が感動するものを創りたい‥‥十三代三輪休雪

自分が感動するものを創りたい‥‥十三代三輪休雪萩焼の旧御用窯が土や薪が滞るようになった明治維新後、1663年から続いた三輪窯も経済的に自立するために苦難の道を歩まざるをえなかった。昭和二年の不況下の中で松蔭神社の土産品として「松陰先生像」を境内で販売したりした十代休雪。戦後の不況から脱出できたのは1960年以後のことである。日々、茶碗屋の息子として土埃の中での三輪窯の土踏み前の土造りや制作、そして薪割り、窯焚で家族総出の忙しく仕事をするのを見てきた十三代三輪休雪となる和彦。彼にとって忘れえぬ展覧会が開催されていた。それが1964年、東京オリンピックを記念した「現代国際陶芸展」(東京京橋の近代美術館)である。小山冨士夫が日本陶芸の発展を願って海外陶芸との出会いを求め、19カ国を駆け巡って集めたもので、バーナード・リーチ、ルーシー・リー、ハンス・コパー、リサ・ラーソンなどの世界各国の陶芸が一堂に集められた。日本からも当代最高峰の陶芸家も競って計190作家232点が出品され、萩からは十代三輪休雪(休和)と節夫(さだお・十一代休雪・壽雪)が選ばれ、ともに萩茶碗を出品していた。 十三代三輪休雪  “寧”(ねい)東京芸大の陶芸科を専攻していた兄龍作(十二代休雪・龍氣生)の勧めで寝台列車に乗って上京。寛永寺坂の美術研究所に通って木炭デッサンに勤しんでいた時、龍作に連れられこの展覧会を観に行った。日本陶芸には目向きもせず、アメリカの現代陶芸を代表するヴォーカス・ピーターHの鉢に白に赤という強烈なインパクトを感じ…

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小山冨士夫

【やきものに捧げて 小山冨士夫】 ‥‥小山先生の生涯はまさに波乱万丈でした。 東京商科大学(現・一橋大学)に入学されたのですが、時は大正デモクラシーの最中でした。社会主義に共鳴した小山先生は家族の反対を押し切って三年で友人とともに中退します。一労働者として第一歩を踏み出すためにカムチャッカの蟹工船で重労働に耐えて三ヶ月の賃金をもらって下船しましたが、帰りの青函連絡船の中で貧しい老婆をみて、その稼ぎをすべて与え、関東大震災では三田の自宅にあった風呂桶を大八車に載せて新大橋から深川八幡まで行き、人々に入浴の奉仕をした。自分の蔵書を売って食物を買って困っている人々を助けたほどのボランテア精神は旺盛でした。小山冨士夫種子島茶碗 小山冨士夫先生が陶磁器に興味を持たれたのは1923年、近衛歩兵三連隊に一年志願兵として入隊した23歳の時でした。同僚に北大路魯山人をよく知る岡部長世がいて、魯山人が京橋で古美術を扱う「大雅堂」(現:魯卿あん)や美食倶楽部を経営していることや中国陶磁器研究者の中尾萬三の話などを聞き陶磁器に興味をおぼえられたようです。小山冨士夫色絵酒觴{花}{間道} 除隊後、中尾の著書『支那陶磁源流図考』を手始めに上野の図書館にあるだけの陶磁器の本を読んだといいます。ですが本を読むことより実践的な陶工への道を選ばれた先生は陶磁器のメッカ・瀬戸と京都で修業されています。瀬戸では兄弟子が小長曽古窯址を案内してくれて、そこで見た朽ち葉色の古瀬戸陶片から得た感動は終生忘れることは出来ないものとなったよ…

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曜変天目

 中国の故宮博物院は一九五〇年代以来、中国各地の古窯址を調査している。とくに浙江省の徳清窯・越窯・台州窯武義窯・龍泉窯などを重要視した。そして一九七七年、武義窯古窯址で「窯変藍釉碗」の陶片一点が採集されたという。 その古窯址を私が訪ねたのは今から四〇年ほど前のことである。そこは天目の里・蘆花坪古窯を思わす広大な斜面に福建省の建窯同様に数基の龍窯址があって、夥しい天目茶碗の破片や匣鉢などの窯道具で小山が幾つも築かれていた。ほとんどが「烏盞」といわれる黒釉の陶片ばかりが目についたが、漆黒の釉面に曜変光彩が出ている天目陶片もあった。 天目茶碗のメッカは建窯。福建省付近にある龍窯の数は百を越えるという。水吉鎮後井村及び池中村(水吉窯)には十一基の「建窯」古窯跡があり、高さ十数メートルの物原は十二万平方メートルの広さがある。大路后門の龍窯は長さ一三五・六メートル、一回で二、三万点の天目茶碗が焼成されたといわれるが、そのようなスケールで焼かれた天目茶碗の中に「曜変天目」といわれる曜変光彩が出たものはわずかである。 日本の国宝となっている三点の曜変天目茶碗、その産地といわれている建窯などで曜変のでた陶片は発見されていない。曜変天目が伝世していない中国では二〇〇九年末に杭州市内の古城跡地から曜変天目の陶片が発見されて大騒ぎとなった。二〇一二年五月に南宋官窯博物館の鄧禾頴館長が発表し、日本ではこの十一月、大阪市立東洋陶磁美術館の小林仁氏が『陶説』にて発表され、昨年は特別展「天目―中国黒釉の美」を開催している。こ…

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山田常山‥‥三代目常山のこと

三代山田常山は 朱泥急須つくりの名人 ”朱泥茶注造り”の屈指の名家に生れた三代目山田常山(本名・稔 1924~2005)は、指先に全神経を集中させ轆轤を廻していた。「絶対に尻漏りはしない急須」が、山田家に代々伝わる秘伝だ、という。 私が初めて常滑に行ったのは50年前(1970)。常滑駅からほど近い前田の入り組んだ商店街には小さな映画館が目立っていた。陶業に携わる職工さん目当てだったのだろう。その一角にある常山窯は自宅兼店舗の一階で自作の急須を商いしながら、轆轤を回されておられた。農閑期に自ら田圃で採取した田土を店の裏にある自宅の庭で大甕の中に水を加えて撹拌して、静かに水簸した粘土に、ベンガラを加えて半年以上かけて甕の中で寝かして粘土を造る。そのため軒下には一〇個ほどの大甕が庭を取り囲むようにおかれていた。3代常山作急須五種 こうして熟成させた粘りのある粘土を荒揉みし、ちぎりながら空気を抜き、菊練りして、一つの胴を造る分だけ手廻しの轆轤台にのせ、ベースとなる本体を作った。手元を見ると、まず湯呑のように立ち上げてから腰のふくらみを作り、口つくりを箆で仕上げてトンボ(竹とんぼに似た直径や深さを測る道具)あて寸法を決める。その後、同に合わせて蓋を挽き、細い口の注口や把手をパーツごとに極力薄く轆轤で成形して一、二日ほど半乾燥させる。乾かした各部をカンナなどで削り、注口と把手の角度は直角より、使いやすい八〇度につけ、茶漉しの孔あけは半乾きのとき、胴の外側から竹串で一つずつ開け細かな穴を開けてから胴に注口を取り…

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