越前の西浦武 逝く

越前の陶芸家・西浦武先生が昨年11月83歳でお亡くなりました。当苑でも個展を開催するなど親しくしていただいた愛すべき陶芸家でした。平成13年(2001)12月に発刊されたPENの表紙を飾ったのが西浦武の作品です。PEN 「全特集・保存版 黒田草臣が厳選した、人気陶芸家の器」というタイトルで、表紙は西浦武の組徳利と平ぐい吞でした。今は亡き中川自然坊、各務周海、柴山勝、原田拾六ら。現在もご活躍中の正木春蔵、黒田泰蔵、隠崎隆一、丸田宗彦、小山智徳、藤岡周平、中里隆、渡部秋彦らの新作433点が掲載されました。西浦武は昭和16年(1941)、福井県敦賀に生まれ、難関大学への入学を支援する名門の東京都立戸山高校から東大法学部公法学科に入学。大学を6年かけて卒業後、鹿島建設に入社されました。前途洋々な出世階段を懸け上っておりましたが、事務方で体を使わず、人に指示する人間関係に心のひずみを感じて30歳で退社してしまいます。以後3年間、精神的なダメージを癒そうと無念無想の境地となって体を使う仕事に没頭することを選びました。難関の大学、さらに一流の会社勤めを放棄しての北は北海道から南は沖縄まで日雇いの仕事を転々としたのです。やがて疲れ果ててたどり着いたのは故郷の北陸だったといいます。組徳利 離すと右側のように傷心の西浦のよりどころとなったのは、地場産業の越前焼です。遠縁で同郷の中村豊を訪ねました。すでに越前陶芸村に「陶杉窯」を開窯して朝日陶芸展で受賞するなど活躍していました。昭和49年(1974)、彼の仕事を見ながら…

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辻清明の仕事

古信楽の名品は枯淡なうちに明るさがあるのが特徴である。 とくに明るい緋色の出やすい信楽の黄瀬土は北大路魯山人をはじめ、川喜田半泥子、加藤唐九郎、八木一夫、鈴木治などが好んで使っていた。 常滑の影響を受けて稼働した信楽焼、紫香楽宮にほど近くで採掘される黄瀬土は鎌倉時代から使われ始めている。昭和時代には信楽土のブランドとなった「黄瀬土」(きのせつち)は‥‥石英・長石の粒を含んだ蛙目粘土で耐火度もあり、薪での焼成を重ねることで自然釉を深く浸透させるという天功のうまみさへ加わり、釉の流れ、釉の溜まりが美しく、明るい土味とともに見飽きぬ風情を添えてくれる。(現在では掘りつくされ幻の土となった) 辻はこの土を使って信楽から遠く離れた武蔵野の面影が残る多磨丘陵に登窯を築窯して独自の信楽焼を開発していく。その辻清明の輝かしい足跡を作品で感じ取っていただけたらと、 しぶや黒田陶苑では 11月1日(金)から10日(日)まで、「気と明る寂び 辻清明展」を開催させていただきます。  信楽窯変茶盌 径14.6 ×12.1㎝ 高9.3cm 辻清明(本名:きよはる)は1927年 (昭和2年) 1月4日、東京府荏原郡世田谷町大字大師堂(現・世田谷区太子堂)に実業家の辻清吉の次男(4人兄弟の末っ子)に生まれた。骨董好きの父親の影響を受け、9歳の誕生日に父にせがんで、透かし彫りのある野々村仁清作「色絵雄鶏香炉」(戦火で焼失)を買ってもらうほど、美術工芸に対して早熟な少年だった。こうした裕福な家庭の影響下で陶芸に興…

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北大路魯山人の信楽と伊賀

 ”無意識の美”ともいえる その巧まないおおらかさが信楽壺最大の魅力だ。 胴が膨らんで裾のつぼまった室町期の大壺‥‥土味の緋色と石ハゼ、素朴な飄逸さなど信楽の魅力を湛え、「猛々しい」と思わずうなるような古信楽の壷である。 古信楽壷 /室町時代 Jar, Old-Shigaraki/ Muromachi period (径39.5 ×38.6 ㎝ 高41.3㎝)   窯内の温度が1200度以上になると原土に含まれている大小の長石が吹き出してくる。さらに木節粘土に含まれている植物性の炭化物が燃えて小穴ができた“うに”。信楽の土肌に“ふりもの”とか“なたね”、“ゴマ”という霧吹きで吹いたような自然釉、そしてそれが集まって溶け出したビードロの濃淡。灰が釉化して溶け出し、数条のビードロが景色を作り、燃料の薪が当たって黒く炭化した窯変などの景色は格別な表情をみせくれる。眺めているうちに、その肌に触れたいと衝動にかられるのも信楽土の良さである。紐作りで立ち上げた胴体部分の肩から絞って、口縁だけは轆轤を使っているので、左右不対称の胴体に比べて硬さの残る口つくり。この口造りをみて、「落ち着かない」と数寄者は嫌い、口縁に薄い布団をかぶせ叩き割ったという。信楽の壷は常滑や丹波などほかの”日本六古窯”にない土の香りを放散させている。 ☆ 北大路魯山人作 信楽建水 / KITAOJI Rosanjin Waste-water container, Shigaraki魯山人作 信楽建水 (径18…

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【魯山人と古美術】Rosanjin and Antiques ‥‥ 李朝彫三島蓮文扁壷

朝鮮半島西南部に位置する栄山江(えいさんこう・ヨンサンガン)の流域を中心に、倭国固有と思われていた前方後円墳が 1983年以後に次々に発見されている。 これは三韓の一つ馬韓全体を支配した百済と倭国との交流を物語る前方後円墳であり、全羅北道高敞(コチャン)郡と全羅南道広州(クァンジュ)市、霊光(ヨングァン)郡、潭陽(タミャン)郡、咸平(ハムピョン)郡、霊岩(ヨンアム)郡と海南(ヘナム )郡、康津(カンジン)郡、羅州(ナジュ)郡を含めた栄山江流域を中心に5世紀後半から6世紀前半に築造され、15か所以上に分布している。海南の長鼓峰古墳は長さが82m、高さは9mに達し、慶州の大型古墳より大きい韓国国内最大級の墳墓だ。それぞれの前方後円墳からは倭国の大量の埴輪、土師器や須恵器などが出土している。 栄山江は多島海に面する木浦(モッポ)港にそそぐ。港からの遠望は大きな湖の様に波が穏やかで夕日が美しいところだ。百済時代には中国の長江文化をこの港から採り入れ、栄山江流域では焼成法や成型技術が伝わって百済陶質土器が焼かれ、移民によってわが国の須恵器誕生の一角を担った。その後の高麗時代には越州窯青磁の技術が伝来し、全羅北道の扶安や全羅南道康津に伝播して高麗青磁を誕生させていく。 こうして李朝初期には朝鮮半島では康津の高麗青磁官窯の技術が宝城湾に面した宝城郡道村里や高興郡雲垡里へ伝わり、粉青沙器の三島や刷毛目のほか、この地方だけの粉引の誕生につながったと考えられる。 上質の粉引を焼成した宝城道村里や雲垡里(ウンデリ)…

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魯山人『日月椀』 ‥‥ 魯山人と古美術展

魯山人の漆芸を象徴する 一閑張による「日月椀」である。 一般的な一閑張は和紙を張り重ねて漆で仕上げた軽いものをいうが、篆刻・書・陶芸で魯山人の世界を創りだした魯山人………。漆芸でも革新的な手法を取り入れ、この椀は山中塗の辻石齋と尾張鳴海の薪絵師・稲塚芳朗を助手にして制作した。丈夫さを求めた魯山人はまず、優れた耐久性をもっている欅材を使っている。欅は日本の代表的な広葉樹、三十年間、充分に自然乾燥させた素材をもとめ、これを轆轤で極めて薄く挽かせ、成型した木地に糊漆(でんぷん粉に生漆)で和紙を張ってのち、乾燥をまって何度も漆を塗り重ねる技法で制作している。さらに金沢の箔打ち師に金箔と銀箔を特注して通常より厚みを倍以上にさせた。その上に金銀箔の砂子を蒔いた。表情をだした金箔、銀箔を真円に裁断して糊漆で張った。ここに一閑張の金銀箔にも微妙な皺ができる。 暖かみを持たせたふくよかな椀なり、雅味溢れる金箔は”陽の太陽”と銀箔は”陰の月”を表し、森羅万象の調和を表現した。当初は銀箔のみできれいな丸(真円)ではなかった。しかも銀は酸化して黒くなるので一枚おきに金箔を使うようになった。この仕事は神経を使って念入りに制作しなくてはならない。手間暇がかかる塗師泣かせの仕事であった。照りのある真塗りに輝く金銀は派手になり、肌触りに加えて質感が相応しくないと魯山人はいう。これらが用を重んじた魯山人芸術の漆芸に対する真骨頂である。        文:黒田草臣 日月お王ん 五客 / Lacquer wa…

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丸田宗彦30回目の記念展

           意欲という歩調を止めない丸田宗彦30回記念展‥‥活字にすれば安易だが、初個展から当苑だけでの30回目の個展である。それも薪のみで焼成する本来の唐津焼という範疇の中‥‥何度目かの個展の出品作の中に、諸人がなしえなかった胴木の間で施釉なしの粉引を焼成して私は度肝を抜かれた嬉しい思い出がある。唐津では初めての窖窯を築いて梅華皮の絵唐津、奥高麗、井戸、御所丸などを焼いた。さらに引出黒、織部黒、楽焼をも唐津焼で初めて成功させた。こうした卓越した作技を変転させたばかりでなく、自然で美しい本来の窯変を探り求める君に敬意を表したい。 美濃の引出黒からヒントを得て「唐津では無理だ」といわれていた引出黒を成功させた。 ご尊父は“九州民芸陶の雄”といわれた丸田正美(大正14年生れ)‥‥黒牟田焼の中に呉須などの塩釉を取り入れ独特で雄渾な民芸陶を制作されていた。1979年12月に54歳という若さで亡くなられ、その悲しみも去らぬ4か月後、高校卒業した宗彦は修業のため栃木県益子へ旅立った。子供の頃、裏山にザクザクあった古唐津の陶片が遊び道具だったこともあり、まさに与えられた宿命の様に陶芸の道を選んだのだ。浜田篤哉氏に四年間師事されてから故郷の黒牟田に帰って塩釉を使った作品や古唐津を手本にした絵唐津を手がけていた。民芸陶黒牟田焼の揺るぎない名門に育った丸田宗彦が武雄市の高台に登窯「内田皿屋窯」を築いて独立したのは昭和62年(1987)9月のこと。独立に際して頼りの父もなく自ら粉骨砕身したことは疑いもなく…

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八十の心音 ‥‥ 島村光展

明治の末から大正にかけて、土管を造るなど窮地に追い込まれていた備前焼‥‥煎茶の流行が備前を救うこととなる。庶民にもおよんだ煎茶器の需要とともに手造りの宝瓶(泡瓶)などが多く造られた。 三村陶景(明治18年生)、西村春湖(明治19年生)、初代大饗仁堂(明治23生)金重陶陽(明治29年)、初代小西陶古(明治32年生)、石井不老(明治32年生)、初代松田華山(明治35年生)、伊勢崎陽山(明治35年生)などの名工(デコ師)が登場している。 とくに陶陽は鳥獣や人物を意匠にした香炉、置物などの細工物や煎茶器一式を造り、早くも20才の頃には『名工』と呼ばれた。なんと26歳になって備前で初めて宝瓶を制作、備前に宝瓶ブームを起したといわれている。 宝瓶(泡瓶)とは把手の無い急須のことで、そのまま手で握って茶を注ぐ。備前の手造り宝瓶は、玉露や煎茶を美味しく飲むには最適といわれる。その理由は‥‥備前の土はもっとも水を好むやきもである。水を旨くすると定評があった。宝瓶(泡瓶)を使ってみる。焼締陶(炻器)ゆえに注ぎ込んだ茶葉と温めの湯が掌に伝わってくる。左の掌におき、右手で摩る。備前土の感触がよい。煎れ終わっても摩っていたいほど。泡瓶 №47w8.3 7.5  H7.8cm 2004年「はつがま −泡瓶−」、2006年には「六十三の心音」に続いて3度目の『泡瓶展』には、傘寿を記念した作り手・島村光が心を込めた”心音”80点の登場である。思いがしっかり発酵するのを待って一気に作り上げた泡瓶の数々‥‥一般の手造り宝…

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直木美佐

親しくしていた直木美佐さんが5月13日に急逝された。デザイン関係の会社に勤められていた美佐さんが楽茶碗を制作するようになったのはご尊父の直木友次良先生の影響である。古美術、とくに乾山の研究家でもあった直木友次良は日本画家であり、名利にこだわらず我が道を行く楽茶碗の名手でもあった。日常の会話からも、芸術に美術工芸に精通した素敵な親娘であった。直木友次良の古美術雑誌「新しい眼」3号の「琳派特輯」の表紙。題簽:小林古径  直木友次良作  黒楽「寿老人」茶碗1981年よりしぶや黒田陶苑にて個展開催。1989年10月、「直木友次良展」出品作。 2022年2月16日から21日まで日本橋三越本店 本館6階 特選画廊に於て「直木美佐茶陶展」が開催された。三越本店では三年ぶり11回目の個展‥‥毎回のように推薦文を書かせていただいていた。昨年の個展での拙文である。 手練の技に心を砕く 茶の湯が侘茶とともに流行した天正の昔‥‥茶道具の拝見を通じて数寄者としての目利きを養う秘伝書とされる『山上宗二記』に「唐物茶碗はすたれ、近頃は朝鮮の高麗茶碗、今ヤキ茶碗、瀬戸茶碗など形さえよければ茶道具としてよい」とある。〝今ヤキ茶碗〟とは天正年間に突如はじまった楽茶碗のこと。利休との思想が一致した秀吉が聚楽第を建設した時に掘り出された土を使って、渡来茶碗のような轆轤で作られたものでなく、手造りし、急熱急冷という新技法であった。楽茶碗を愛し制作される楽土会・志土呂会を主宰されておられた叔父の江川拙斎、そして父・直木友…

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浜本洋好 2023  斑唐津

博多から唐津に向かうと筑前前原(まえばる)を通る。ここは大陸との交流も盛んで、日本最大の銅鏡が発掘された「伊都国」が弥生時代に栄えたところだ。 初期唐津発祥の地で斑唐津を追及する浜本洋好先生はこの地の肥沃餅藁を使っている。現代では台風に強い背の低いうるち米に頼っているが、この手の藁は硬く自分好みの斑唐津には不向きだと浜本洋好はいう。 古代から続く丈の高い餅藁を栽培している前原の農家を探して種籾を分けていただき、地元・北波多の農家に栽培してもらっている。収穫後、藁を干してから穂は農家に渡し、焼き過ぎて灰色にならないように茎を焼いて炭状の藁灰を作り、これに土灰と長石を混ぜて斑釉を作っている。窯詰め時には真っ黒い茶碗も、高温焼成で柔らかい釉調の斑唐津が劇的に誕生することに命を懸けている希少な陶芸家である。【唐津 浜本洋好作陶展】Exhibition of HAMAMOTO Hiroyoshi斑唐津茶碗  見込2023年2月24日(金) ~ 2月28日(火)Exhibition : February 24 to February 28, 2023 会場:しぶや黒田陶苑 💠京橋には魯山人ゆかりの地があります💠 魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地  魯卿あん‥‥Rokeian 〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    TEL: 03-6228-7704 FAX: 03-6228-7704営業時間:11:00~18:00(日・祭日休)Email: rokeian-kurod…

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自分が感動するものを創りたい‥‥十三代三輪休雪

自分が感動するものを創りたい‥‥十三代三輪休雪萩焼の旧御用窯が土や薪が滞るようになった明治維新後、1663年から続いた三輪窯も経済的に自立するために苦難の道を歩まざるをえなかった。昭和二年の不況下の中で松蔭神社の土産品として「松陰先生像」を境内で販売したりした十代休雪。戦後の不況から脱出できたのは1960年以後のことである。日々、茶碗屋の息子として土埃の中での三輪窯の土踏み前の土造りや制作、そして薪割り、窯焚で家族総出の忙しく仕事をするのを見てきた十三代三輪休雪となる和彦。彼にとって忘れえぬ展覧会が開催されていた。それが1964年、東京オリンピックを記念した「現代国際陶芸展」(東京京橋の近代美術館)である。小山冨士夫が日本陶芸の発展を願って海外陶芸との出会いを求め、19カ国を駆け巡って集めたもので、バーナード・リーチ、ルーシー・リー、ハンス・コパー、リサ・ラーソンなどの世界各国の陶芸が一堂に集められた。日本からも当代最高峰の陶芸家も競って計190作家232点が出品され、萩からは十代三輪休雪(休和)と節夫(さだお・十一代休雪・壽雪)が選ばれ、ともに萩茶碗を出品していた。 十三代三輪休雪  “寧”(ねい)東京芸大の陶芸科を専攻していた兄龍作(十二代休雪・龍氣生)の勧めで寝台列車に乗って上京。寛永寺坂の美術研究所に通って木炭デッサンに勤しんでいた時、龍作に連れられこの展覧会を観に行った。日本陶芸には目向きもせず、アメリカの現代陶芸を代表するヴォーカス・ピーターHの鉢に白に赤という強烈なインパクトを感じ…

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