加藤唐九郎 『才気煥発』 ‥‥ 魯卿あん

常人の枠を超えて波乱万丈の陶芸人生を送った加藤唐九郎‥‥ 「水のみ百姓兼瀬戸の貧乏窯屋」と自らいう半農半陶の家に明治31年(1898)に生まれた唐九郎は 幼少の時から土に親しんで、陶片拾いで遊んだというまさに窯元の申し子だ。 「学校教育は人間をだめにする」と、家業再興を願う祖母の方針で、やきものの技術を叩き込まれた。 13歳の時、桃山時代の黒織部茶碗に触発され、美濃陶を手がけるようになった。 父の丸窯を譲り受けて、「唐九郎」の名で早くも作陶家として独立したのは16歳の時である。 大正7(1918)年、21才で結婚し、「瀬戸の唐九郎」として古窯址の発掘しながら、本格的な陶磁器研究も始めた。 こうして桃山の名品をみる機会が多くなった唐九郎は志野に開眼し、32歳の昭和五年の冬、古陶に倣って新たに穴窯を築いて志野を焼いた。 この窯出し作品を三井物産の横井夜雨が五碗求めてくれた。 その中の一つを茶友の益田鈍翁に届けた。 当時、鈍翁は関東大震災を期に名古屋にきていた近代茶の湯の数寄者。 これをみた鈍翁は「現代作家が『卯花墻』(国宝・桃山時代)を師とした」ということから『氷柱』と銘をつけ、 「藍は藍より出でて尚青く 氷柱ハ水より出でて尚冷たし 鈍翁誌」と箱書した。 昭和10年、川喜田半泥子の全面的援助で、名古屋市郊外(現春日井市)の翠松園に仕事場を得た。 現在、唐九郎作となっている作品のほとんどが、この翠松園での制作である。 「一にも土、二にも土,三にも土、…

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