田中佐次郎作陶展 ‥‥ 日本橋三越本店

田中佐次郎展日本橋三越本店美術特選画廊        焱と闘う 田中佐次郎  新たな美への創生 ‥‥ 黒田草臣 「思想がやきものをつくる」といわれる田中佐次郎先生は、 茶禅一味のなかでつねに漢詩や書を親しみ、玄奥な陶の道への糧としている。 木々深く清麗なる水が湧く絶好の地の利を得て『山瀬』に登窯を築窯して以来、民家もない山深みの地‥‥。その清浄なる気に包まれながら新しい高みを求めて陶三昧の日々を送り、自らの芸術はどうあるべきかを問うてきた。 古唐津再興を願って多くの古窯址を巡っていた先生は四百数十年前、わずか二十数年で窯の火を消すことになった幻の名窯「山瀬」の古窯址で縮緬皺の美しい高台と薄く乳濁して瑞々しい一枚の陶片に出会い、手のひらでその輝いた陶片を握りしめながら、その場にしゃがみ込んでしまったほどの衝撃を受けられた。やきものに無常観を悟った佐次郎先生は、同時に山紫水明な山瀬魅せられ、「幻の窯」再興を決意し、心身研磨のため、越前の永平寺にて得度、法名「禅戒法月」の居士号を受けた。 一九七五年には永平寺と同じ曹洞宗の常楽寺(唐津市半田)境内に登窯と工房を築いて、土にこだわり強烈な炎の勢いを感じさせる豪放な古唐津を蘇らせている。 一路の光明を求めて山瀬に移ったのは一九八七年秋のことである。標高七〇〇m、山紫水明の山瀬にあった原生林を切り拓いて割竹式登窯を築いて初窯を成功させたのである。 李朝末期の詩人・玩堂の詩に「菩薩元来深き処に住む/ …

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丸田宗彦‥‥大胆にして繊細な唐津

桃山時代もおわりの頃のこと‥‥ 「お茶碗戦争」ともいわれる文禄慶長の役で、 加藤清正とともに戦った鍋島藩の家老・後藤家信が慶尚南道金海の深海宗伝・百婆仙を中心とした千人近い朝鮮陶工集団を連れ帰ったといわれ、その証拠に武雄地区での古窯跡は約90ヵ所確認されている。  彼ら朝鮮陶工が良土を見つけ出した竹古場山の麓にある黒牟田では絵唐津、刷毛目、黒釉などの生活用品が焼かれ、江戸時代その伝統を綿々と守ってきた。 ところが明治時代には60軒ほどあった窯元が、時代とともに変容の渦に撒き込まれ、昭和30年代にはたった1軒となってしまった。  その一軒が昭和の初めに黒牟田焼の再興に力を注いだ丸田寅馬と、黒牟田焼を個性豊かな民芸陶へと導いた寅馬の次男・丸田正美の登窯だった。 放浪の天才画家・山下清が『放浪記』を書いた翌昭和32年に訪れ、正美作品に絵付けをされるなど陶芸ブームにのった黒牟田焼・丸田正美の名は全国に広まった。 丸田宗彦井戸黒茶碗  丸田正美の次男・丸田宗彦は子供の頃から古窯址の物原が遊び場だったという。 竹古場山の麓から獣みちを登ると古唐津の陶片がザクザクあった。スケールの大きな錆谷や小峠など唐津焼の名を高めた古窯址である。  益子と黒牟田で修業してのち、渡来陶工が見つけてくれた”土の宝庫”武雄で、「自らの陶の道はどうあるべきか」と思考し、独立とともに、「家業の民芸陶より伝統ある唐津焼をしたい」と、新たな答えを見出して内田皿屋窯を築窯した。胸に秘めた思いを古陶片から学び、子…

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魯山人展  魯卿あん

北大路魯山人先生が「魯卿」(ろけい)と名乗り始めたのは大正5年(1916)の33歳になった時です。 岡本可亭の書生となって時以来、唐代の「顔真卿」(顔魯公)に傾倒しておりました。 魯とは愚か、大ざっぱで間が抜けていること。その「魯の字が好きだよ」と、『魯卿』と名乗っています。 『魯卿あん』 床  翌年には神田駿河台のシンボルでもあるニコライ堂(東京復活大聖堂教会)の鐘の音が心地よく聴こえる紅梅町の借家に「古美術鑑定所」の看板を掲げて、書と篆刻の仕事もしておりました。  鎌倉に越したのは大正七年のことです。アジサイ寺といわれる明月院の門前にあった高梨家を借りました。谷川に架かる石橋を渡った茅葺き屋根の田舎家と納屋のような小屋があり、ここに「北大路魯卿」の表札をかけました。夏になると好物のスイカを谷(やつ)で冷やし、家族皆で食べるなど忙中の閑を楽しまれたようです。近くの小坂小学校へ転向した長男の桜一は素直で習字もうまく、勉強もでき、大正10年には小坂小学校を首席で卒業し、鎌倉五山第一位の建長寺が創立した鎌倉学園中学校へ入学しています。  このころ京橋の交差点にほど近い実業之日本社の増田義一社長に認められ、「実業之日本」の看板を頼まれ、同社の雑誌「日本少年」、「小學男性」、「少女之友」、「実業之日本」の表紙題字なども手がけました。さらに現在の明治屋の所にあったレストラン「メゾン鴻乃巣」の看板もこの頃、仕上げています。厚みが15cmある欅の一枚板(3m×90cm)で彫銘は魯卿です。「…

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