星岡窯(ほしがおかがま)

北大路魯山人が古美術品を扱う『大雅堂』と『美食倶楽部』が大正時代にあったところが、現在、京橋にある「魯卿あん」です。 魯山人が立ち上げた『美食倶楽部』の会員が増え、料理を盛る器が足りなくなったことで、食器の制作のため、山代温泉にある須田菁華(初代)で食器を主に制作し、数窯焼いてもらいました。 ところが関東大震災ののち、芝公園で『花の茶屋』そして、山王台の『星岡茶寮』で使うことになり、その器の種類を増やすため、京都の伏見などで制作することになります。 幸田露伴が命名した「東山窯(とうざんかま)」の当主は加賀大聖寺出身の宮永剛太郎(1869~1941)で、京都伏見深草に登窯を持ち、青瓷を得意としておりました。 東山窯で窯つくりの名人だった川島礼一は同じ深草で作陶する河村蜻山と親しく、これが縁で魯山人は蜻山窯で刷毛目や三島、繪高麗風の作品を制作して焼かせてもらいました。 ほかに山中の矢口永寿での乾山風扇面鉢や三彩の皿、大聖寺の中村秋塘での金欄手の鉢、梅山窯では楽焼、宮永東山の青磁の壺や皿、瀬戸の加藤五助窯で織部や志野、黄瀬戸などで制作して焼かせてもらっていました。 星岡窯(ほしがおかがま) ですが、「自由に制作し焼成できる自らの窯を持ちたい」と思った魯山人は東山窯にいた川島を呼びます。 築窯にあたって魯山人は鎌倉山崎の自然との調和に努力しました。 川島礼一が築いた京風登窯の長さは十八㍍、幅八・五㍍です。 「星岡茶寮」(ほしがおかさりょう)の登窯ということで、 『星岡窯』(ほしがお…

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