小山冨士夫‥‥離れ技の「種子島焼」誕生秘話

少しでも古陶磁や陶芸に関心を持つ人なら小山冨士夫の名を知らぬ人はいないだろう。 東洋陶磁学会委員長、日本工芸会理事長、日本陶磁協会常任理事などの役職のほか、出光美術館をはじめ、本間美術館、佐野美術館の理事。そして五島美術館、松永記念館、根津美術館、畠山記念館の顧問や評議員をつとめながら、世界を駆け巡り、多くの古窯址を発掘調査され、陶磁器学者の権威といわれた。 古陶磁学者の第一人者だが、日本陶芸界の発展にも尽くした。 「私はどんな人でもその人の良いところしか見ないことにしている」と気さくで誰とでも分け隔てなく接する「陶と人」を愛した巨星であった。 明治三十三年(一九〇〇)三月、父親は善太郎、母親は幾無(きむ)の七人兄弟の長男として岡山県浅口郡玉島町(現・倉敷市)に生れた。父は「岡山特産・花筵」を輸出する貿易商、祖父はギリシャ正教徒である。 プロテスタントと敬虔なキリスト教徒であった父・善太郎は病気になり、指圧で快復すると本業を捨て指圧師になった。そんな父が富士登山した後に生まれたので「冨士夫」と命名された。ちなみに弟・濠一はオーストラリヤに旅行中に生れたという。 種子島銅鑼鉢 陶芸家として専念されたのは鎌倉二階堂の自宅に「永福窯」を築いた昭和41年の66歳のときだった。 昭和44年、台湾の故宮博物院に招かれて、「日本にある中国陶磁」について講演することとなった小山は、その途中、沖縄那覇の「壺屋やむちん」の里に立ち寄り、初めて沖縄で作陶されている。 壺屋には釉薬の掛かった上焼(ジ…

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