1929年の魯山人‥‥金澤美術倶楽部個展

昭和四年(1929)はウオール街の株価大暴落で世界大恐慌が勃発し、各地で労働争議が激しかった年。 日本では文化財の保存と活用を目的とした「国宝保存法」が施行され、宝物類3705件、建造物845件が国宝に指定されている。また大阪では日本初のターミナルデパート「阪急百貨店」が開店し、東京上野では関東大震災で焼けた跡地に、地上8階、地下1階のルネサンス様式として「松坂屋」が新装開店、13万人もの人々が殺到したと伝えられている。 この昭和四年、魯山人は四月だけで北陸方面で五回という個展を精力的に行った。 会場は大正二年から四年までの食客時代に多くのことを学んだ長浜から金沢へとたどった逆コースだが、無名だった魯山人の天分を開花させてくれた細野燕臺や窪田朴了、河路豊吉らと旧交を温め、また恩返しも兼ねての開催となった。 皮切りは「魯山人藝術」最大の理解者・細野燕臺の食客となった金沢である。 百万石の城下町として栄えたこの町は、今も古い伝統が残っており、明治維新では官軍にも徳川方にもつかず、中立を貫いた。維新に大きな功績もなく、爵位も公爵ではなく一ランク下の侯爵だった。しかし維新後も資産があった金沢は古美術品が東京、大阪に次ぐといわれてきた。じっさい茶人や数寄者も多く、尾張町の銘菓「長生殿」で知られる森下八左衛門、そして細野燕臺が双璧だといわれていた。 細野燕臺 燕臺(細野申三)は金沢を代表する作家である泉鏡花や徳田秋声とは幼馴染み、セメント業と清国磁器雑貨商「細野屋」を経営する実業家の傍ら、陽…

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星岡窯(ほしがおかがま)を築いて爛熟期に向かう…魯山人

一木一草をも崇め寄り添い、美しいものに支えられている魯山人の姿を見て来た私には、残された作品に潜んでいる生命感あふれる創造力が、人を気持ちよく引き寄せて行くのではないかと思える。 篆刻や書道の名手と謳われ、美食倶楽部を設立するほどの料理道の達人といわれるようになった大正時代末、止めどなく湧きでる芸術性を創出するために鎌倉山崎に「魯山人窯芸研究所」を立ち上げた。 まさに星岡茶寮の開店や終の住いとなる慶雲閣を移築するなど忙しいさなかであった。 移築した頃の慶雲閣 魯山人没して57年‥‥、関心度も年々高まりをみせ、没後も各地で魯山人展が開催されている。 その図録などに記載されている年譜を補足すれば、昭和時代だけで個展の数は八十回超えていた。 この激動の昭和時代、陶芸家の個展などはマスコミには無視されがちだったが、魯山人の個展情報は多くの新聞雑誌で取り上げられている。なかでも朝日新聞の服部蒼外、中外商業新報(現在の日本経済新聞)の外狩素心庵、毎夕新聞の田沢田軒は好意的だった。 大正時代、大雅堂美術店の二階で「美食倶楽部」を興し、それが軌道にのると古陶磁の器だけでは足りなくなり、山代の菁華窯で制作し数窯焼いた。ところが関東大震災によって「大雅堂」と「美食倶楽部」が焼失してしまい、倶楽部会員のためにもせめて料理屋だけはと芝公園で「花の茶屋」を開店させ、のちに星岡茶寮を主導することになる。 器への必然性を、より感じたのだろう、京都の宮永東山や河村蜻山、三浦竹泉窯で青磁や万暦赤絵、染付、刷…

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