1929大聖寺『魯山人陶磁器大展觀』 そして長流亭

「徳川家に謀反の意がない‥‥」と、 築城や軍備拡張という武治の加賀藩を文化の加賀藩に政策転換をさせたのは加賀藩三代藩主・前田利常と五代藩主・綱紀である。 蒔絵、彫金などの工芸、お茶などを奨励し、京都から裏千家の千叟宗室を招き、同道した土師長左衛門を大樋村で楽焼を開窯させて初代大樋長左衛門とし、能登の穴水中居で鋳物業を営んでいた宮崎義一を茶釜造りとして指導させて、藩の御用釜師「宮崎寒雉」と名のらせた。また金工師の後藤顕乗と従弟の後藤覚乗、蒔絵師の五十嵐道甫や清水九兵衛など一流の名工たちを京都から高禄で召し抱えるなど、加賀文化の礎を作っていく。  とくに藩の殖産政策として陶磁器に目をつけたのは加賀前田藩の支藩である大聖寺藩の初代藩主・前田利治。利常の三男で元和4年(1618)金沢生まれ、母は将軍秀忠の次女・珠姫である。寛永16年(1639)22才の時、大聖寺7万石の藩主となった利治は小堀遠州に師事して茶道を好み、楽焼を楽しんだりしている。新田や鉱山の開発を奨励していたことで、領内に金山銀山を発見し、偶然にもこの鉱山開発中に良質の陶石が発見したという。 魯山人所蔵の「古九谷赤繪小皿」(星岡29号) 利治はこれを機に九谷鉱山で錬金の仕事に従事していた後藤才次郎定次を陶業技術の修得のために肥前有田に派遣させ、製陶技術を取得させた。帰藩後、才次郎は田村権左右衛門らを指導して、江沼郡九谷村に窯を築いた。こうして「色絵磁器」(古九谷)の生産を完成させたとされている。 大聖寺の料亭 …

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