金重陶陽は「備前の生き神様」そして「備前焼中興の祖」

1967(昭和 42 )年の春、一人の青年が金重陶陽と金重道明の門をたたき、中庭の見える居間に通された。 昼寝をしていた金重陶陽が、作務衣に着替えて現れた。 「やきものは教えられるものではなく、自らが感じ とらねばならない。 作品は生れてくるものだから、 本人の人間性を高くしなければ良い作品は生まれて こない」 と、正座して 30 分ほど説教された。  金重陶陽当苑「からひね会展」より すでに 60 年近くも陶業に携わってきた陶陽だった。そこで悟ったのは、 「内 面からの美しさは“土・焼・造”が大切」 という陶芸家としての基本であった。 明治以来、土管や土産物だけに頼っていた備前焼の土の作り方、窯の構造や焚き方、窯詰の仕方も大幅 に変えた。こうして存亡の危機を見事に払拭して救世主となって“備前の生き神様”と言われ、小山冨士夫には〝備前焼中興の祖”と讃えられたのだった。 江戸時代から小奇麗な伊部手の細工物を生業とした陶家に生まれた陶陽は鳥類の細工物を得意としていた。 細工物は型に粘土を入れて作られるが、型抜きした後の技術が問われる仕事である。 得意の鳩や雄鶏などの鳥類は型抜きの後、箆や竹串を使って羽毛を一本一本ずつ精緻に彫り上げた。 乾燥を一定させるため、粘土に砂糖を混ぜた。その潮解性により、乾燥時のひび割れや剥離を起こすのを防いで、羽毛の線がくっきり出すことができた。 細かな手加減で操作するため、必ず繻子の布団を敷き、その上に作品をのせて細工し、デコ師とし…

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現代備前の礎を築いた陶芸家たち

旧山陽道沿いに発展した備前の街を、はじめて訪ねた昭和42年の冬のことで、もう50年前になる。 煙突や松割木の山が妙に目立ったものの、伊部の街はひっそりとしたやきものの里にみえた。 この伊部の小さな街をくまなく巡っても窯元の数は二、三十軒ほどで、陶工たちは寒さにて耐えながら土を足で踏んで粘土をこさえ、薪を割っていた。 備前の街に佇む古備前の大甕 経済復興の波に乗って、昭和47年には東京と岡山間を新幹線が開通し、施釉陶だけでなく焼締陶の備前焼にもブームが到来し、赤煉瓦造りの煙突が雨後の竹の子のようにふえてきた。 無釉焼締の素朴な備前焼が忘れかけていた枯淡を愛する人々の琴線に触れたからであろうか。 土管や耐火煉瓦の製造を余儀なくされ苦難の道を歩んでいた備前焼を破格ある芸術作品に引き上げたのは、備前焼中興の祖・金重陶陽であった。その陶陽なくして現代の備前を語ることはできないが、今一人、現代備前焼に貢献した芸術家が北大路魯山人であった。 北大路魯山人作 備前四方鉢揃 美に対してあくなき探求心と温故知新の精神で人の心を打ち、気品ある芸術作品を生み出していた魯山人は、 「無釉の陶器のなかで群を抜いて備前は美しいね。何といっても土そのものに変化があり、味わいがある。土と火との微妙な関連によって渋い奥行きのある色が出るなど世界に類をみないよ」 と昭和27年にイサム・ノグチを連れて備前へやってきた。これを知った備前の陶芸家の多くが陶陽窯に集まってきた。金重七郎左衛門(素山)、藤原啓…

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井戸茶碗が焼かれた 熊川陶窯址

「一井戸茶碗 是れ天下一の高麗茶碗 山上宗二見出して、名物二十、関白様に在り」と、『山上宗二記』に記され、あらゆる茶碗の王座を占めてきた井戸茶碗。 慶尚南道昌原(チャンオン)市鎮海(チネヘ)区‥‥ ここは朝鮮半島の古代には「伽耶」に属し、李氏朝鮮時代には熊川(こもがい)県といわれたところ。 熊川茶碗は、古くは「カカンド」とか「カカント手」ともいわれていることからも、現在の北朝鮮・咸鏡北道で焼かれたと思われる。細かい貫入が琵琶色の上釉に映える。鎮海区の熊川港から出荷されたから熊川茶碗というのであろう。熊川茶碗の特長はやや端反りの口縁、立上りは丸く膨らんだ椀形、見込に鏡、そして多くは土見せの高台で竹節を呈している.朝鮮半島南部で焼かれたと思われる高台まで釉掛けしたものもあり、土も多様だが、熊川港のあった鎮海区付近では焼かれていない。 熊川には十五世紀初めから十六世紀の中頃まで倭館が設置され、多くの日本人が居住していた。 文禄・慶長の役の時、秀吉軍が朝鮮で作った最大規模の倭城址があるが、 その後、日本の統治時代には軍港として着目し、日本軍国旗を象った町が造られた。 さらに日本帝国のシンボルである桜が大量に植えられ、現在では桜の名所となっている。 重ね焼きの高台(熊川陶窯址展示館) 鎮海市熊東面頭洞里〈現在は昌原(チャンオン)市鎮海(チネ)区鎮東面(チントンミョン)熊川(ウンチョン)頭洞里(トドンリ)〉の古窯址からプンチョン(刷毛目や三島)やペクチャ(白磁)などの陶片が発…

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