藤原雄 ‥‥器の中に“間”とか“遊び”

備前の伊部駅から瀬戸内海に沿って日生に向かうと片上湾が見えてくる。 海側にある耐火煉瓦や炉材の工場に遮られてしまうが、 その反対方向の急坂を上り詰めると藤原啓記念館と雄工房がある。 天気のよい日は豪壮な藤原邸の応接間から瀬戸内海に浮かぶ小島と穏やかな入り江が望め美しい。 藤原雄 備前窯変擂座花入 藤原雄は魯山人ばりの美食家であった。 明治大学の日本文学科に通われていた頃、岡山の陶芸通に紹介されて鎌倉の魯山人のところを訪ねた。 その初対面の日に、「また一人で飯でも食べに来いよ」といわれ、毎週土曜日に出かけ、月曜日に下宿に帰ってくる学生生活を三年間続けた。 「魯山人先生には日本的感性とか、美意識とか、風情、人生を粋に生きるというか、モノを上手に活かしていくことなど陶芸の哲学を学んだ。なにしろ先生の影響を受けたものだから知らず知らずに食いしん坊になった」 と料理の名店や寿司屋、そして魚市場などへもご一緒されたほど魯山人に可愛がられた。 「料理を手伝いながら、器と料理の調和を言葉ではなく厳しい修業として味合わせていただいた。私の生涯に二度とない素晴らしさをもたらしてくれた魯山人先生に感謝しながら日夜、器造りに精進している」 藤原 雄 明治大学卒業後、文学が好きで一時、出版社に勤めていたが、昭和三十年、父・啓が胃潰瘍で倒れ、父の体を案じて帰郷し助手となる。その後、アメリカなどに行って改めて故郷の焼物・備前の土の良さを認識し本格的に陶芸の道に入っている。 「父の助…

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山本陶秀 ‥‥ 轆轤にかけた陶芸人生

明治39年、備前市伊部に生まれた山本陶秀は、燐家の金重利陶苑で職人たちが轆轤で制作するのに憧れ、大正10年に陶芸界に入った。 選んだ修業先は備前で一番大きい窯元だった黄薇堂で、入門した当日に轆轤台に座り、たちまち湯呑を十個、挽きあげたという。 昭和13年、京都の日本芸術院会員・楠部弥弌に師事し、14年には中国四国連合工芸展で優良賞を受賞したのを皮切りに轆轤一筋に精進されて戦中戦後の苦しい時代をのり越えていく。 昭和34年にはブラッセル万国博に出品した緋襷大鉢がグランプリ金賞を受賞するなど内外に認められ陶芸作家として地位を固め、昭和62年には、国の重要無形文化財保持者(人間国宝)となり、永年の苦労が報われた。 山本陶秀肩衝茶入 陶秀の繊細なろくろで造る茶入は気品に溢れ、日本伝統工芸展では毎年のように、大物に挟まれて小さな茶入が堂々と出品されていた。 山陽新幹線が岡山まで開通したのは昭和47年3月である。と同時に空前の備前焼ブームの幕開けである。 新幹線の騒音をまともに受けることになる陶秀宅は、防音装置を施した鉄筋コンクリートの自宅と工房に改築することにした。ところが旧宅の跡地には手榴弾が埋まっていた。 戦時中、金属物資が不足して軍の命令により一八軒あったという備前窯元は手榴弾を作らされた。ほとんどの窯元は型で作ったが、轆轤名人といわれる陶秀は灯火管制の元、轆轤で制作した。 改築の際、この手榴弾が全て掘りおこされ、 「備前陶工は兵器を作らされた時代もあった。二度とこんな…

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藤原啓  ‥‥ 陶酔 無心 夢

藤原啓ぐい呑と徳利 JR赤穂線伊里駅の近くの工房から瀬戸内海の片上湾が臨める陶芸家として絶好の地へ‥‥ ここに藤原啓親子が窯や工房を新設された50年ほど前、まだ新築の香りが残る真新しい和室に通された。 私は床の間の棚に飾ってある片口鉢が気になった。 どっしりとした高台から穏やかに立ち上がり、厚みが一cmほどある口縁には溝がめぐらされた啓独特の作り。全体に淡いカセ胡麻が掛かり、腰と見込に目が覚めるような緋牡丹があった。それまでの固い備前焼の観念を覆す穏やかな創りと優しさを感じとった。 そんな私を見て、「ええ、焼けじゃろ‥‥これが『赤窯変』じゃ。‥‥狙っておるが、なかなか取れん」。 この時、『赤窯変』とは造語なのだろうか、初めて聞いた。 藤原啓大徳利千鳥が天に舞うように自身のサインが彫られている。  魯山人はイサム・ノグチを連れて備前にきた昭和27年、陶陽窯へ集まってきた多くの陶芸家の前で、 「古備前は無釉の陶器のなかで群を抜いて美しいね。…なのに、伊部の街を歩いてみて感じたのだが、君たちは伝統のなかに居眠りをしているのではないかな。‥‥こんなに良い土があるのに、もったいないことだ」 といい、土を菊練しながら、「君たちに素人でもできるいい方法を教えるよ」と、その土の塊を掌でとんとんと叩き広げて、 「この日本一の陶土を活かすには、ざっくり作った陶板が一番だ」 と箆などの道具を一切使わず手早く四方平鉢を仕上げた。 魯山人四方平鉢 その後の備前では器を好んで作る…

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