天目茶碗は北宋の徽宗皇帝によって‥‥木村盛康「傘寿」
なぜ、「建窯」は天目茶碗の故郷なのでしょう‥‥
中国福建省建陽県水吉鎮周辺にある水吉窯・芦花坪窯・大路后門山窯・長乾窯・源頭坑窯・牛皮崙窯跡などが建窯の総称でその総面積は12万平方メートルという広大さの中に百を越える巨大な龍窯がありました。
なかでも大路后門山窯の龍窯は135,6メートルという長大なものでした。ここにはほかに晩唐、五代に使われた青磁窯2基、元代の青白磁窯1基が確認されています。
8年ほど前に訪ねた時にはそれを物語るように天目の陶片の他に青磁の陶片も見つけることができました。また同安窯で焼かれたような「珠光青磁茶碗」を思わすような猫描き手の陶片もありました。
遇林亭古窯址龍窯
青磁を焼いていた窯が黒釉の天目茶碗を焼くようになったのは、五代から宋代にかけて興った抹茶(碾茶)の流行でした。
それまで喫茶用の茶碗として使われていたのは越州窯で8世紀の唐代から焼かれた『青磁』と刑州窯で焼かれた『白磁』が主流で、透明の茶には「青磁や白磁」の碗が美味しそうにみえて似合ったからでしょう。
宋代になると上流階層では泡立った不透明な緑の抹茶をきわだだせるために黒釉の『天目茶碗』が流行してきました。手にもっても天目茶碗は熱くならないなどと歓迎されたのです。
奨励したのが北宋の第8代皇帝の徽宗です。
「美味なるモノ、美しいもの」を大切に風雅の道を説いた文人皇帝。茶が美しく映える天目の「兎毫盞」(禾目天目)を愛しました徽宗が著した『大観茶論』には、「盞色貴青黒、玉毫条達物為上」…