砧青磁・飛青磁・天龍寺青磁・七官青磁を焼いた龍泉窯・そして官窯「楓洞岩窯」

福建省との境にほど近い浙江省龍泉市内から眺める山々は素晴らしいの稜線である なんと標高1000m以上の山が800以上あり、市内の大部分(70%)は山地で占めているというのだ 古越磁や越州窯、南宋官窯などそのいたるところに青磁の古窯址がみられ、 なかでも浙江省西南部に位置する「龍泉窯」は、中国最大の『青磁』産地である 龍泉窯発掘「青磁」陶片 竜泉窯の西側は「天目」の項で紹介した福建省武夷山風景旅游区に接している 「龍泉青瓷博物館」によると、青磁の最盛期の北宋、南宋時代の龍泉窯一帯の住民は2~3万人 その60%およそ1万5千人前後の人々が陶工として従事していたという 龍泉大窯 竜泉大窯は北宋時代中期までは浙江省東北部の上虞、慈渓などの越州窯の影響を受け、浙江省南部の温州市永嘉県などの甌窯、浙江中部の金華市の婺州窯などの影響をうけて同じような形の製品を作っていたが、釉調が灰色や灰白色の淡青釉の初期龍泉窯の特徴をもった五本の口を付けた多嘴瓶(五穀倉)や罌(おう・盤口瓶)などの明器が焼かれ、砧青磁などが焼かれた南宋代に飛躍的に質料ともに最も発展した青磁窯である 「萬声」や「馬蝗絆」などの名高い『砧青磁』は、きめの細かい胎土で薄く成形された「薄胎厚釉」(はくたいこうゆう)という空色を呈する粉青色釉青磁、美しい風格のある青磁だ 日本の国宝となっている『飛青磁花入』(大阪市東洋陶磁美術館蔵)は元代(1271~1368)に焼かれた 元代か…

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山田山庵‥‥松永耳庵を瞠目させる

並外れた才能、それを自由気儘に発揮し、展観する度に数寄者を驚愕させたほどの腕前であった 楽茶碗の名手・山田山庵先生……  85歳となられた平成3年に、ご自身が選びぬいた作品集『自撰 楽茶碗 山田山庵』を出版され、巻頭に挨拶文に載せている。 「昭和十年の春だったと思いますが、商用で名古屋へ行っているうちに、ちょいちょい立ち寄っていた骨董屋さんに、中村道年さんという楽焼の作家がおります、いってみませんかと誘われて八事の道年さん所へ伺ったのが、私と楽焼との運命的な出合いだったのでしょう。 土から茶碗になる道程に強い魅力を感じ、以来家族のものからは気違いに近いとと言われ乍らも夢中で作りつづけてすでに五十余年が経ちました。」と、楽茶碗造りをされる経緯を語られている。 この度、その作品集の中から楽茶碗のみの逸品38点をご遺族のご厚意で一堂に展示させていただきます。 山庵先生は昭和9年、初代の中村道年先生から土を譲り受けて長次郎茶碗を手本に楽茶碗の手造りを始められた。もとより古美術の蒐集家でもあられる山庵先生は茶道具を商う「山惣」を創業し、のちに裏千家老分となるほど茶の湯に深く拘(かか)わっていかれた。 赤楽茶碗吹雪 光悦黒茶碗「くいちがゐ」を所蔵するなどまれにみる目利きである、 「長次郎には低火度の美はあっても、よく溶けた美を発見できず」と、 奔放な茶碗を創り出す光悦に私淑し、艶ややかな黒楽と赤楽の釉肌に執着され、心の赴くままに変化を持たせた創作の世界にのめり込んだ。 それは土の塊を球…

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浜本洋好…初期の『斑唐津』に惚れた‥‥

陶芸の原点は「迫力ある原始的なもの」だと、売名行為を図ることをよしとしない浜本洋好先生。 15年間、唐津焼の窯元で修業されているが、30歳の頃、初期唐津の深遠な斑唐津に惚れて、岸岳周辺の古窯址を入念に発掘調査された。ここで唐津焼に適した粘土を掘って窯元へ売って独立資金を稼がれた。 頑固一徹な信念を曲げることなく清貧を苦にせず、豊かな陶土の岸岳に対座してこの道を歩む独立を決心された。 窯焚を待つ間、ひっそりと佇む浜本洋好先生の割竹連房式登窯 桃山陶の中でも初期の斑唐津の深遠さは他を圧する。そこには透明感があり、深味がある。 土と釉と炎をみごとに融合させているからだろう。 岸岳の土を調べる 先生はその本歌を手本に“土と炎”を相手にする陶匠だから、力仕事と藁灰つくりなど根のいる窯仕事は人任せにせず、すべて独りでされている。 浜本洋好 斑唐津茶碗 土は岸岳周辺の粘土を徹底的に調査され、耐火度のある砂気の多い土を、土木建築や農業に携わる方々からあらゆる情報を得て探しあてた。少ない時でも2トン車5台から、良い土が出れば4トン車に10台の粘土を借金してでも手に入れる執念をみせた。 そのほとんどが「斑唐津」に適した粘土で、そのほか絵唐津に適した武雄の白土や朝鮮唐津に適した藤の川内古窯址にあった鉄分の多い粘土も掘った。 割竹式連房登窯胴木の間から 窯は35年前に岸岳の麓に割竹式連房登窯を築いた。 現在の唐津焼では唯一の本格的な割竹式連房登窯である。 初期唐津で使われ…

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