西岡小十‥‥小次郎窯と小十窯
「古格を保った昔のままの土がいたる処にあります。心踊ります。明日から仕事にかかります。環境はよし、人情はよし、静かな中に清らかな高い響を周囲の風物から受けることができます。…中略…
(唐津焼を)土地の人さえ知りません。骨董屋店を見てもカケラさえ見当たりません。完全に滅びてしまって、ただ、各所に窯跡らしい丘に高台など見られるくらいのものです。宝のような原料がかくも無尽蔵に何処掘ってもあります。」と昭和十年三月に石黒宗麿は大原美術館の武内潔真に唐津の実情を手紙に書いている。
中里太郎右衛門のお茶碗窯は倒炎式の石炭窯だったので、「古唐津に迫るやきものを再現するには薪窯でなくては」という宗麿の提唱で登窯を築くなど、唐津の理解者である古館九一、高取九郎、金平京一らと唐津の復興について古館邸に集まって真剣に考えた。
ところが、陶芸家では魯山人、半泥子、唐九郎、土師萌ら、研究者や数寄者では金原陶片、水町和三郎、古館九一、佐藤進三、青山二郎、白洲正子、小林秀雄、立原正秋、川端康成などが古唐津に注目したものの、小山冨士夫の努力が実るまで当時の唐津焼作家は日の目を見ることはなかった。
こうした中、小山冨士夫は、「素朴で野武士のような唐津は日本の窯跡のなかでも最も心引かれるところ」と、魅力ある古唐津の再現を現代陶芸家の手でと熱望していた。
西岡小十 斑唐津徳利
世間の名利私欲とは無縁‥‥
西岡小十は古唐津再興に邁進された陶芸家であった。
生涯、無冠‥‥これは小山冨士夫の助言によるもので…