丸田宗彦‥‥無類の逞しさで現代唐津を担う

古唐津と現代唐津の融合を見事に実現し、昨春には独立30周年の記念展を開催させていただきました。 そして今年は、当苑での個展が25回目を迎える節目となりました。 丸田宗彦唐津ぐい呑 丸田宗彦先生は1961年に黒牟田焼の窯元に生まれ、益子焼で修業して帰郷されて三年後、古唐津名窯の里・武雄に登窯を築いて独立。独立当初、民芸陶と唐津焼の両党使いの作陶を続けられていた。 当苑での初個展を経て、「唐津焼に一本に絞ったら」と助言した思い出があります。 彼の返事は「古唐津が好きです」と答えてくれた。 初対面は謙虚で先天的な善性さが印象的な青年でしたが、陶芸の三本柱(焼・土・作り)に対しては無類の逞しさをもち、その作風に対する心意気も並外れていた。 丸田宗彦朝鮮唐津窯変壺 朝鮮唐津や斑唐津はもとより焼締の粉引、梅華皮唐津、奥高麗、井戸、割高台、御所丸、刷毛目、三島、引出黒、織部、白織部、楽など、今まで唐津焼の範疇では思いもつかなかった技法をも取り入れた。 新しきものごとは真っ当には運ばないものだが、奇を衒うことなく耽々と加味し、唐津焼の新しき時代の流れを作ってきた。すべて努力の賜だが、前に遮るもの無きがごとくに、順風に帆を孕むごとく日を追って丸田宗彦の名を高めてきた。 奥高麗茶碗 古唐津のよさは、土のよさでもある。作り易くするために土をブレンドすることが多い昨今だが、古唐津への情熱が燃え滾り、自ら土を掘り、その特質を生かす単味で使うように心がけている。登窯と穴窯という性格の…

続きを読む

魯卿あん  【大芸術家 北大路魯山人展】

『魯卿』と号するようになった北大路魯山人35歳の時、鎌倉の円覚寺に連なる六国見山を背にした明月谷に茅葺きの田舎家を住いにして「北大路魯卿」の表札を掲げました。 北大路魯山人銀刷毛目徳利と志野ぐい呑 ここ京橋東仲通りに古美術店『大雅堂芸術店』を開店したのは翌大正八年五月のことです。 鼈甲縁の丸眼鏡をかけ、自ら蒐集した古美術品を陳列しました。 魯卿は黒い中国服を着て、夏になるとステテコにチジミのシャツを着て店番をしながら時折、二階で依頼された篆刻など大きな体を精力的に動かし、毎晩帰るのは十一時半の最終電車。 東京駅から乗りこんで大船駅から人力車で帰宅しました。 大雅堂芸術店のちに美術店 北大路魯山人先生が「魯卿」と名乗り始めたのは、大正5年(1916)の33歳になった時です。岡本可亭の書生となって以来、唐代の「顔真卿」(顔魯公) に傾倒しておりました。魯とは愚か、大ざっぱで間が抜けていること。その「魯の字が好きだよ」と『魯卿』と名乗っています。 翌年には、神田駿河台のシンボルでもあるニコライ堂(東京復活大聖堂教会)の鐘の音が心地よく聴こえる紅梅町の借家に「古美術鑑定所」の看板を掲げて、書と篆刻の仕事もしておりました。 鎌倉に越したのは大正7年のことです。アジサイ寺といわれる明月院の門前にあった高梨家を借りました。谷川に架かる石橋を渡った茅葺き屋根の田舎家と納屋のような小屋があり、ここに「北大路魯卿」の表札をかけました。夏になると好物のスイカを谷で冷やし、家族皆で食べる…

続きを読む