『巨匠の高麗茶碗』‥‥炎芸術別冊 高麗茶碗

巨匠の高麗茶碗明治時代、文明開花の名のもとに押し寄せた西欧様式やオートメーションなどの新しい技術や機械の導入が、古き良きものを捨ててしまう新しい価値観を生み、わが国の「侘・寂」という独特の美意識が無視されてきた。李朝代に焼かれた高麗茶碗も日本の一部の数寄者だけがその良さを理解しるにとどまっていた。ようやく桃山復興や高麗茶碗の再現が叫ばれてきたのは昭和時代になってからだ。「井戸、三島、粉引、無地刷毛目、刷毛目、熊川、斗々屋、蕎麦、呉器などの上釉は高麗青磁の流れを汲むものだ」と、本物を知る川喜田半泥子や北大路魯山人らを筆頭に、粉引、刷毛目など白を際立たせる透明釉(石灰釉)ではなく、青磁釉を掛けて匣鉢を使わず薪窯での滋味あふれた高麗茶碗の再現に成功した。真摯に高麗茶碗を追いかけた河村蜻山の「三島茶碗」や吉賀大眉の「井戸茶碗」も心に残る秀逸な作品を残している。川喜田半泥子 井戸茶碗 銘「白菊」東の北大路魯山人とともに自由な多芸多趣味の人生を貫いた西の川喜田半泥子。「数寄者の作陶だ」とみられがちだが、その研究心はプロの陶芸家顔負けだ。高麗茶碗においても1913年から朝鮮半島に渡って各地の陶土を掘り当て、「李朝初期」を好み、井戸や刷毛目、粉引、割高台などを制作するようになる。1934年には鶏龍山古窯址を発掘調査してから築窯のヒントを得た半泥子は自らの手で胴木間を長くした三袋の登窯を築いた。その数年後の1937年、高麗茶碗の「無地刷毛目」が焼かれた全羅南道務安郡望雲(マウン)半島にあった廃窯を直して全長六、七メ…

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