目の眼「東京 京橋」‥‥変わりゆく古美術の街
京橋ゆかりの人 北大路魯山人 魯山人と京橋魯山人と京橋 魯山人芸術の根幹をなす書道、そして絵画、篆刻、料理、陶芸など‥‥ずば抜けた知性と行動力をもって革新的な可能性を見出し、それらを融合させた“魯山人芸術”の基礎を創ったのが京橋時代であった。魯山人「風雅陶苑」消失するまで東仲通りあった二頭立ての馬が軌道の上の車輛を引っぱる鉄道馬車が京橋~上野~浅草間を走っていた明治三六年(一九〇三)、時まさに日清戦争に勝って国運の高揚し、煉瓦造りの洋館やガス灯など西欧化が進んでいた。日本男児なら誰しも徴兵検査を受けなければならない二〇才となった魯山人は、近視のため兵役が免除された。この年、「あなたは上賀茂神社の社家・北大路家に生まれ、生母の登女は東京にいる」と叔母の中大路屋寸から聞かされた。六歳の時、五番目の養父母となった時から福田姓を名のってきたが、「きたおおじ(・・・・・)」という響きに生家への誇らしさを感じた。これを期に書家として大成したい、まだ見ぬ母登女に一目会いたいと上京を決意した。勤めていた西洋看板屋からの給金五円を懐に上京し、屋寸の娘カネの嫁ぎ先である東京市京橋区高代町「松清堂」の丹羽茂正を頼った。ところが母には人目をはばかるように冷たくされ、中林梧竹ともに「明治の三筆」といわれた巌谷一六、日下部鳴鶴に会うがその姿勢に失望して、独歩の道を歩むこととなった。書道塾を営む魯山人の教え方は理詰め、弟子たちは分かりやすく教えてもらえることで評判を呼び、翌年、日本美術協会美術展覧会に初出品した「隷書千字文」が…