小山冨士夫

【やきものに捧げて 小山冨士夫】

‥‥小山先生の生涯はまさに波乱万丈でした。

東京商科大学(現・一橋大学)に入学されたのですが、時は大正デモクラシーの最中でした。
社会主義に共鳴した小山先生は家族の反対を押し切って三年で友人とともに中退します。
一労働者として第一歩を踏み出すためにカムチャッカの蟹工船で重労働に耐えて三ヶ月の賃金をもらって下船しましたが、帰りの青函連絡船の中で貧しい老婆をみて、その稼ぎをすべて与え、関東大震災では三田の自宅にあった風呂桶を大八車に載せて新大橋から深川八幡まで行き、人々に入浴の奉仕をした。自分の蔵書を売って食物を買って困っている人々を助けたほどのボランテア精神は旺盛でした。

小山冨士夫先生が陶磁器に興味を持たれたのは1923年、近衛歩兵三連隊に一年志願兵として入隊した23歳の時でした。同僚に北大路魯山人をよく知る岡部長世がいて、魯山人が京橋で古美術を扱う「大雅堂」(現:魯卿あん)や美食倶楽部を経営していることや中国陶磁器研究者の中尾萬三の話などを聞き陶磁器に興味をおぼえられたようです。
小山冨士夫色絵酒觴{花}{間道}

除隊後、中尾の著書『支那陶磁源流図考』を手始めに上野の図書館にあるだけの陶磁器の本を読んだといいます。
ですが本を読むことより実践的な陶工への道を選ばれた先生は陶磁器のメッカ・瀬戸と京都で修業されています。瀬戸では兄弟子が小長曽古窯址を案内してくれて、そこで見た朽ち葉色の古瀬戸陶片から得た感動は終生忘れることは出来ないものとなったようです。その後、京都今熊野日吉町(蛇ヶ谷)に一軒家を借りて『寒』と号して独立され、轆轤を廻して薄手の中国宋風の白瓷を作られて共同窯で焼いておられました。

その翌年に石黒宗麿(35)が向かいの長屋の二階に金沢から引っ越してこられたのはその翌年です。毎日のように陶芸談義に明け暮れ、意気投合した二人は交代で炊事を受け持つなど、終生、変わらぬ親交が始まりました。小山先生は狭い裏庭に窯を築いて、宗麿先生の唐三彩の俑などを焼いてあげ、夫人からその時の三彩の作品をもらい、「よく出来ていたので大事にしている」とのちにいわれてました。

小山先生は備前の磁土と蛙目を半々に合わせて作った白高麗が評判で再三注文がありましたが、その磁土を採りに行くともう無くなってしまい、1年ほどほかの磁土で焼いていましたが、白さにカゲリがあり気に食わないと全部壊し、その白磁の破片で部屋が一杯になったのです。昭和五年六月に母親の幾無が亡くなり毎月、四十円送られてきた仕送りが途絶えたことも手伝って見切りをつけ、今度は古陶磁を研究するために古窯址を徹底的に調査しようと思い立ち、古陶磁の研究を決意して昭和五年末に東京に戻られました。その後、各国の古窯址を巡られ、『宋磁』(聚楽社)を刊行、「定窯」の発掘など世界的な東洋陶磁の研究者として知られるようになりました。

「わたしを焼ものの道に踏み込ませたのも古瀬戸の陶片だし、私をさんざん苛めたのも古瀬戸の陶片である」と『永仁の壷事件』が明るみにでてのちに語られました。


小山先生は三度目の結婚をされた時、鎌倉の奥座敷ともいわれる緑深い山々に囲まれた二階堂に住まわれるようになられてから、何度もお邪魔するようになりました。

50数年前の秋、私のパーティーがあり、私の目の前で「黒田節」を大声で謡って踊って披露してくれました。
イタリアのローマの酒場ではプロの歌手からマイクを取り上げて、大声で「オーソレミヨ」を堂々と唄い、花ノ木窯の窯出の日に伺うと急遽、ガーデンパ-ティ-となるのです。
ウオッカとジンを折半した…古山子特製の「花ノ木カクテル」を作って「飲もう!」といわれ、酔翁のごとく朗々と「城が島の雨」を唄いあげました。ロシア民謡も十八番で愉快に踊って大声で唄われた。誰とでもうちとけ談笑しあう性格だったので、生前中、心安くし接しさせていただいた心に残る偉大な人でした。


魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地  
魯卿あん‥‥Rokeian
〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    
TEL: 03-6228-7704 FAX: 03-6228-7704
業時間:11:00~18:00
Email: rokeian-kuroda@jupiter.ocn.ne.jp
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