意欲という歩調を止めない丸田宗彦
30回記念展‥‥活字にすれば安易だが、初個展から当苑だけでの30回目の個展である。
それも薪のみで焼成する本来の唐津焼という範疇の中‥‥何度目かの個展の出品作の中に、諸人がなしえなかった胴木の間で施釉なしの粉引を焼成して私は度肝を抜かれた嬉しい思い出がある。
唐津では初めての窖窯を築いて梅華皮の絵唐津、奥高麗、井戸、御所丸などを焼いた。さらに引出黒、織部黒、楽焼をも唐津焼で初めて成功させた。こうした卓越した作技を変転させたばかりでなく、自然で美しい本来の窯変を探り求める君に敬意を表したい。

ご尊父は“九州民芸陶の雄”といわれた丸田正美(大正14年生れ)‥‥黒牟田焼の中に呉須などの塩釉を取り入れ独特で雄渾な民芸陶を制作されていた。1979年12月に54歳という若さで亡くなられ、その悲しみも去らぬ4か月後、高校卒業した宗彦は修業のため栃木県益子へ旅立った。子供の頃、裏山にザクザクあった古唐津の陶片が遊び道具だったこともあり、まさに与えられた宿命の様に陶芸の道を選んだのだ。浜田篤哉氏に四年間師事されてから故郷の黒牟田に帰って塩釉を使った作品や古唐津を手本にした絵唐津を手がけていた。
民芸陶黒牟田焼の揺るぎない名門に育った丸田宗彦が武雄市の高台に登窯「内田皿屋窯」を築いて独立したのは昭和62年(1987)9月のこと。独立に際して頼りの父もなく自ら粉骨砕身したことは疑いもなく、その陰の努力には頭が下がるのである。
私は平成2年(1990)、親しくしていた中川自然坊が「会わせたい若手がいます。すぐ行きましょう」と
慌ただしく玄海から武雄に向かったことを思い出している。
宗彦29歳の時で数年後のデビュー展(1993)を当苑で開催させていただいたのだ。
奥高麗茶盌
古唐津の追及からその基本は良土を見極め採取することだと知った君は、
古唐津の名窯と謳われている古窯址を改めて巡って良土を探し出して掘り出し、
奥高麗や絵唐津では古唐津に迫る風韻を醸し出そうとした。
釉調が穏やかな斑唐津や朝鮮唐津壺、花入に
変化を求めて窯焚の最終番に火床に落として焼成をつづけた。
意欲という歩調を止めず、
造形と焼成技術が心技とともに開花してきたのである。
今年の干支は「辰」‥‥李氏朝鮮王朝のシンボル龍は神格化されて聖獣となり、李朝中期の17世紀に鉄砂雲龍文壷がつくられている。
本歌は磁土だが、宗彦は白化粧の粉引に得意の絵筆をもって鉄絵でこの聖獣を描いた。古陶を咀嚼した丸田宗彦独自の好技といえるだろう。
今回挑んだ斑釉の流し掛け茶碗は、焼成度の高きをも想念する出来栄えである。
唐津焼の掛分の新しき意匠を思わせるが、人為にて限界を超越する天心合作によるもの。
直接炎が作品に降り注ぐ窯焚では窯出しの際、同じ作風でも出来不出来が混在するが、
土・造・炎に精魂込めた作者自身が選び抜いた力作がこの30回展で発表される。30回展を楽しみたい。
文:黒田草臣 撮影:野村知也
黒田草臣BLOG「陶 奈なめ連れづれ」 (kusaomi.jp)
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