朝鮮半島西南部に位置する栄山江(えいさんこう・ヨンサンガン)の流域を中心に、倭国固有と思われていた前方後円墳が 1983年以後に次々に発見されている。
これは三韓の一つ馬韓全体を支配した百済と倭国との交流を物語る前方後円墳であり、全羅北道高敞(コチャン)郡と全羅南道広州(クァンジュ)市、霊光(ヨングァン)郡、潭陽(タミャン)郡、咸平(ハムピョン)郡、霊岩(ヨンアム)郡と海南(ヘナム )郡、康津(カンジン)郡、羅州(ナジュ)郡を含めた栄山江流域を中心に5世紀後半から6世紀前半に築造され、15か所以上に分布している。海南の長鼓峰古墳は長さが82m、高さは9mに達し、慶州の大型古墳より大きい韓国国内最大級の墳墓だ。それぞれの前方後円墳からは倭国の大量の埴輪、土師器や須恵器などが出土している。
栄山江は多島海に面する木浦(モッポ)港にそそぐ。港からの遠望は大きな湖の様に波が穏やかで夕日が美しいところだ。
百済時代には中国の長江文化をこの港から採り入れ、栄山江流域では焼成法や成型技術が伝わって百済陶質土器が焼かれ、移民によってわが国の須恵器誕生の一角を担った。その後の高麗時代には越州窯青磁の技術が伝来し、全羅北道の扶安や全羅南道康津に伝播して高麗青磁を誕生させていく。
こうして李朝初期には朝鮮半島では康津の高麗青磁官窯の技術が宝城湾に面した宝城郡道村里や高興郡雲垡里へ伝わり、粉青沙器の三島や刷毛目のほか、この地方だけの粉引の誕生につながったと考えられる。 上質の粉引を焼成した宝城道村里や雲垡里(ウンデリ)などの窯では白を際出せるため、上釉は薄く施釉してある。ところが、同じく高麗青磁官窯があった扶安からの影響によって全羅南道の務安地方の無地刷毛目に代表される粉青沙器、さらに日本人になじみ深い鶴峰里の鶏龍山で焼かれた刷毛目に鉄絵の粉青沙器はやや黄ばんだ釉薬をたっぷりと掛けてある。このことが焼成法を含めて温和な釉調を生んだのだろう。
仏教の高麗時代から儒教の李氏朝鮮時代と移り、「倹約」「質素」「潔白」を旨とした儒教の精神がこの地方の粉青沙器製作に乗り移ったのではないだろうか。

李朝彫三島蓮文扁壷 / Flask with lotus design, Yi Dynasty

高麗青磁にも使われた鉄分の多い陶土を太めの徳利型に轆轤し、生乾きの胴に二枚の板を押し付けて扁平に作った扁壺だが、角張らず壺の中に柔らかな空気を送ったかのような膨らみがとても愛おしい。
素焼せず灰色の胎土に刷毛を用いて肌理細かな白土(カオリン)を厚く塗りかけ、乾きを待って蓮文様を線彫りし、高麗青磁の上釉に使われた土灰釉をたっぷりと掛けている。高麗青磁の還元焼成から中性炎で焼かれたのだろうか、霞の掛かった温かみのある釉調に圧倒される。
儒教の道徳観念は「潔白」「清浄」「質素」「倹約」ということから、高麗青磁にみられるような端正で奢侈な装飾を控え、質素倹約による大雑把な製作過程が明末の古染付のように私たち日本人の感性にふれる”ワビ・サビ”が感じられる清新性をも具現化されている。
この扁壺を焼いたのは全羅北道高敞郡龍山里(チョルラプクド コチャングン ヨンサンリ)窯とみられる。龍山里から発掘されたいくつかの有段式連房式登窯の物原から、搭載の扁壺に見られるような蓮文のほか、魚文、牡丹文、唐草文などを掻落した彫三島の壺・扁壺・徳利・碗・片口(酢次)・鉢・皿も出土している。ほかには刷毛目や三島手、さらに黒高麗の扁壺や徳利、壺も出土。その後、粉青沙器は文禄の役以前すでにこの国から姿を消し、白磁を焼くようになった官窯成立以降はその影響を受けて白磁を焼くようになり、古窯址から白瓷の耳盃、碗や皿類も出土している。 (黒田草臣)
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黒田草臣BLOG「陶 奈なめ連れづれ」 (kusaomi.jp)
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