
窯内の温度が1200度以上になると原土に含まれている大小の長石が吹き出してくる。
さらに木節粘土に含まれている植物性の炭化物が燃えて小穴ができた“うに”。
信楽の土肌に“ふりもの”とか“なたね”、“ゴマ”という霧吹きで吹いたような自然釉、そしてそれが集まって溶け出したビードロの濃淡。
灰が釉化して溶け出し、数条のビードロが景色を作り、
燃料の薪が当たって黒く炭化した窯変などの景色は格別な表情をみせくれる。
眺めているうちに、その肌に触れたいと衝動にかられるのも信楽土の良さである。
信楽の壷は常滑や丹波などほかの”日本六古窯”にない土の香りを放散させている。

昭和8年、魯山人は信楽に旅することが多くなった。
勿論、信楽の上質な「黄の瀬土」を手に入れることが主だったのだが、元々、古信楽の自然な焼肌にひかれていた魯山人である。
地元の登窯で焼成すれば「自然釉を深く浸透させるという天功のうまみさへ加わる」と思った。
ところが信楽の登窯は共同窯だから大きい。『果物鉢の会』を企画してこの窯の何袋かを貸し切って焼くことにした。
昭和8年の秋、信楽をふたたび訪れ、土を練り、轆轤を中心に作品を造り、乾燥を待って仕上げをした。
個展を意識した茶陶や花入壺などの作品制作のほか、「鉢の会」のために焼締、黄瀬戸、飴釉、土灰釉を掛けた。
掛分や縞模様などに絵瀬戸風の絵付けしたものなど、大きさや深さもまちまちの鉢を150点製作した。
今回紹介した建水や伊賀の建水も京風登窯といわれる星岡窯(ホシガオカガマ)の焼成ではなく、信楽での制作と思われる。
信楽の建水の土は黄瀬の原土を使っているので、吹き出した大小の長石が陶肌に美妙な趣を与えている。
こうして窯詰めは自然釉を呼び込む火前に置いて焼成した。
窯出しは昭和9年の正月のことであった。見込には自然釉の釉だまりが美しくよい焼けである。
北大路魯山人 伊賀釉建水 / KITAOJI Rosanjin Waste-water container, Iga


1980年頃、私は信楽雲井地区にある黄瀬の土を掘り出す雲林院さんに魯山人のことを伺った。雲林院は農家兼業の粘土採掘屋であった。
「信楽地方には土が無尽蔵にあるが、黄瀬土は少なくなってしまった。しかし魯山人には鉄分の少ない上質の粘土を分けた。」
と、庭先にうず高く積まれた土の層を見せながら、
「このような白っぽい土が魯山人のお気に入りだった。」と粘土の山の一部を指さしながら教えてくれた。
黄瀬土は200~150万年前に出来た古琵琶湖で花崗岩の風化物が堆積した地層。
その特徴は、鉄分が少なく、複雑な石灰分の働きで緋色もでる「牛肉で言えば霜降りの最上肉」といわれる希少な土。
これを落盤しない程度まで洞穴のように掘る『達磨掘り』といわれる方法で良いところだけ採掘する。
しかも信楽の土は耐火度も抜群、可塑性に富む質の良いことで、魯山人をはじめ、半泥子、唐九郎なども好んで使っていた。
(現在、本来の黄ノ瀬土はなくなり合成して造られている。普通に使われている信楽土は『露天掘り』してユンボで一気に採掘するようになった。その結果、だんだんと鉄分が多くなり、水溶鉄やマンガンが多く含まれ、焼成しても鮮やかな緋色が取れず茶色の地肌となってしまう。)
北大路魯山人 信楽灰被花入 / KITAOJI Rosanjin Flower vase, Shigaraki, Ash glaze

晩年の魯山人の特徴を示した造形法にタタラ成型と鋳込み成型がある。
信楽の古壷に直接、石膏を塗って鋳込の型を造り、その型に水簸した信楽土の泥漿を流し込んだ。
乾燥後に型から抜き、口などに箆を入れた後、芒文や草文を刻した。
ここに前回の登窯の焼成後に残った燠を水簸してアクを抜いた松灰を掛ける。
壷は火が走りやすく自然釉が掛かりやすい登窯の火前に置いて焼成している。魯山人のいう灰被壺である。
「花入」と箱書しているのは魯山人が茶の湯を意識していたからである。
Closed on Sunday, April 21
黒田草臣BLOG「陶 奈なめ連れづれ」 (kusaomi.jp)
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