辻清明の仕事

古信楽の名品は枯淡なうちに明るさがあるのが特徴である。


とくに明るい緋色の出やすい信楽の黄瀬土は北大路魯山人をはじめ、川喜田半泥子、加藤唐九郎、八木一夫、鈴木治などが好んで使っていた。


常滑の影響を受けて稼働した信楽焼、紫香楽宮にほど近くで採掘される黄瀬土は鎌倉時代から使われ始めている。昭和時代には信楽土のブランドとなった「黄瀬土」(きのせつち)は‥‥石英・長石の粒を含んだ蛙目粘土で耐火度もあり、薪での焼成を重ねることで自然釉を深く浸透させるという天功のうまみさへ加わり、釉の流れ、釉の溜まりが美しく、明るい土味とともに見飽きぬ風情を添えてくれる。(現在では掘りつくされ幻の土となった)



辻はこの土を使って信楽から遠く離れた武蔵野の面影が残る多磨丘陵に登窯を築窯して独自の信楽焼を開発していく。その辻清明の輝かしい足跡を作品で感じ取っていただけたらと、


しぶや黒田陶苑では 11月1日(金)から10日(日)まで、「気と明る寂び 辻清明展」を開催させていただきます。



 
信楽窯変茶盌 径14.6 ×12.1㎝ 高9.3cm


辻清明(本名:きよはる)は1927年 (昭和2年) 1月4日、東京府荏原郡世田谷町大字大師堂(現・世田谷区太子堂)に実業家の辻清吉の次男(4人兄弟の末っ子)に生まれた。骨董好きの父親の影響を受け、9歳の誕生日に父にせがんで、透かし彫りのある野々村仁清作「色絵雄鶏香炉」(戦火で焼失)を買ってもらうほど、美術工芸に対して早熟な少年だった。

こうした裕福な家庭の影響下で陶芸に興味を持ち、11歳の時に買ってもらった轆轤を見よう見まねで廻し、14歳の時には世田谷区若林の自宅に陶房を造って、姉の辻輝子(日本の女性陶芸家第1号)とともに辻陶器研究所を設立している。


まず中国陶磁の白磁や天目の荘厳さに魅かれた辻は、1941年(昭和16年)に石炭を燃料とした倒焰式窯を築いた。

同区祖師谷に工房を持つ富本憲吉に強く影響を受けて足繁く通い、さらに板谷波山のもとへ通い教えを受けている。十代で陶芸を目指す辻の熱意を感じ取って気を許してくれたのだろう。その影響下で白瓷や天目、染付の作品などを主に焼成した。この間、学校へはほとんど行かず、頻繁に父を訪れる古美術商の古美術品や話に影響を受けて陶芸への感性が磨かれていったようだ。白磁は富本憲吉作品や李朝白磁を参考にし、天目では木の葉天目にも挑んでいる。




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辻清明 「気と明る寂び 辻清明展」図録より

富本憲吉から新匠工芸会の研究員のメンバーに加えてもらい神妙に先輩たちの話を聞いた。

大正15年から籍を置いていた国画会工芸部を退会した富本憲吉は、1947年(昭和22年)1月に自らを中心に新匠工芸会を発足させた。会員には北出塔次郎、福田力三郎、山田喆、加藤土師萌、近藤悠三、ガラスの佐藤潤四郎、鍛金の後藤年彦らがいた。


1948(昭和23年)、辻は新匠工芸会展に出品、札幌市で初の個展を開催している。

1951年、同志と「新工人」会を設立。漆工芸家であったのちの妻・和田協子も新工人のメンバーだった。

1952(昭和27年)和田協子(陶銘:協)と結婚し、武蔵野の面影をもつ南多摩(現・多摩市連光寺)で半陶半農の生活を始めた。

転機となったのは小山冨士夫から六古窯の話を聞いた32歳の時である。

素朴な山茶碗など自然の焼締陶に興味を抱いた。大自然が長い年月をかけて作り出した自然界の土、その土の恩恵を作品に生かす信楽土に取り憑かれた。なかでも自然の原土そのものがもつ珪石の粒や長石の混入した力強い信楽土に白羽の矢を立てたのだろう。それは中国陶磁のもつ表面的な飾りや釉に終始することからの脱却でもあった。


多摩丘陵で信楽土を使って制作をし始めた1955(昭和30年)、辻清明は26歳。この頃、本場の滋賀県信楽では四代上田直方(1898~1975)、三代高橋楽斎(1898~1976)、高橋春斎(1927~2011)らが活躍していた。信楽の陶芸家や古信楽にみられる素直な焼成が信楽焼の伝統でもあった。


辻陶器工房を設立した辻は信楽の原土を取り寄せた。信楽最良の土といわれる黄瀬土を採掘する雲林院から送られた鉄分が少ない灰白色の微石粒を含んだ明るい色調の良好な粘土である。酸化焼成によって黄緑色ないし赤褐色を呈する。枯淡なうちに明るい緋色の出やすい黄瀬土を不純物を取り除いてから水を加えて足で土を踏み、菊練りした後、重い欅の手廻し轆轤で作り始める。


多摩丘陵連光寺の高台に3室の登窯を築窯し、初窯を3昼夜焚いた。ところが初窯特有の湿気で窯壁は乾いておらず、燃料の薪も生木を使用してしまったので焼成温度が上がらず、さらに悪いことに制作したありったけの作品を窯に詰め過ぎてしまい、焔の通り道を確保できずに窯出したが、ほぼ失敗してしまった。


 
信楽板皿 銘「日の出」径23.0 高5.1cm   信楽石目くしがき皿 径17.2㎝ 高3.3cm
  

尊敬していた北大路魯山人作品に対して辻の言葉が残っている。


「古陶磁や古窯址を訪ね陶片を集めて独自の世界をもち、その右のでる者はいない。サイン一つ、芒一本だってちゃんと勘所はおさえている」と魯山人作品を鑑賞するために火土火土美房を週に2回ほど通い、何度か購入もしている。

辻清明のタタラ作りの食器群などに魯山人の影響が見られる。


1960年(昭和35年)33歳の時、小山冨士夫から紹介されて藤原啓窯で10日間ほど作陶、手伝いに来ていた甥の藤原建と意気投合した。

力強く、土を活かす備前焼の正道をいく建の備前作品は品格高く定評があった。備前焼に魅了させられた辻清明は藤原建と酒を飲み交わし、互いの窯を往き来するほどになった。


信楽巻貝角杯 径5.6× 4.9 cm 高8.9cm

辻清明より3歳年上の藤原建は備前の窯詰め法を教えた。

備前では陶板を火前で平面に置いて焼成すると切れやすく、側面などに立て掛けて焼成していた。また花入、徳利などの作品を火床に寝かせ、その上で薪を焼成すると「窯変」という変化をもたせる。信楽では行われていない焼成方法だったが、辻はこれを元に窯詰することで見所のある作品をうむようになった。登窯も3室から5室に改造して、1,2室には唐津や釉薬ものや協夫人の作品を窯詰めし、3、4,5室には信楽作品を平詰めして赤松を燃料に5日間焼成した。


信楽土自然釉茶盌  径13.2 ×11.6 ㎝ 高8.8cm


信楽の黄瀬土は鉄分が少なく灰白色の微石粒を含んだ明るい色調の良好な胎土で、酸化焼成によって黄緑色ないし赤褐色を呈する。

1964年、このことが”信楽特有の美”と特徴づけた山口諭助氏の著作にある「明る寂び(あかるさび)という言葉が、私の心を捕らえた。宿命を素直に受け入れ、自然と合一する静寂の境地というだけでなく、この言葉には華がある。優美でのびやかで、夜明けの空に似た澄んだ気配がある。私の心の波長とぴったりきたのである。」と辻は語っている。37歳のときである。




信楽盃



1980年頃、「奥高麗茶碗を拝見したい」とご連絡をいただき、何度か当苑の小座敷にあがり、両肘を膝の上に載せて両手で茶碗を持って熱心に拝見されていた。「枇杷色の熊川形の典型的な奥高麗茶碗だね」と関心を示されていた。


還元した灰釉が特徴の古唐津に倣っていた唐津作品に奥高麗的な枇杷色を狙った作品が多くなる。

枇杷色を得るため、登窯の二番の奥に窯詰めした。

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 唐津盃 径6.0㎝ 高7.7cm  絵唐津盃 径6.0 高6.5cm
  




1976年、韓国の金海市に滞在して数ヶ月の作陶を行った。井戸郷と言われるセミコルにも行ってみたが、土の違いを痛感した。
さらに1982年10月28日から一月ほど韓国慶州の女流陶芸家の登窯(5室)で白瓷や灰釉で制作している。


 
慶州土白磁盃 径7.6㎝ 高5.2㎝            白磁蕪鉢 径18.5㎝ 高11.5㎝

慶州土木の葉皿(五客) 凡そ:径24.0× 15.5㎝ 高2.6cm

多摩・連光寺の工房が付近の開発により登窯焼成などの仕事への支障が懸念されたため、約10年を費やして、還暦を迎えた1987(昭和62年)、長野県南安曇郡穂高町有明の別荘地奥に100坪の工房と登窯を完成させた。


これは新潟県最西端の糸魚川にあった270年を経た古民家を解体したもので、新たに設計し直した茅葺屋根の豪壮・壮大な屋敷である。

辻は屋敷の梁や柱は漆を塗らせ、そのほかの木材には亜麻仁油を弟子たちとともに皆で塗り、李朝家具を配置した。


「古美術は、私の血となる師ですから、高い月謝を払うのは当たり前」という辻清明‥‥、

2階にある元蚕部屋を改装してその収蔵庫とした。半世紀かけて蒐集した縄文土器から古信楽などの六古窯、唐津、美濃をはじめとした古陶磁、古代ペルーの土器、エジプトのコアガラス、シリアのローマングラス、ルネ・ラリック、日本の江戸切子にガラス、鉄器などを含めた古美術品を蒐集しここに収蔵した。別棟には高野槇の風呂を2つ備え、その一つには松本の漆芸家に漆を塗らせるという凝ったものだった。

ここで新たに登窯(5袋)窯を築窯、1989(平成元年)初窯を焼成した。戦時中は陸中海岸にほど近い岩手田野畑村に疎開した縁もあり、岩手の土を使った作品も焼成している。

なんとその年の暮れの事である。長野県穂高町有明の邸宅が完成2年後の1989(平成元年)12月、自慢の工房を焼失してしまった。

連日、暖をとるため囲炉裏に薪をくべて焚いていた。乾燥し切った茅葺屋根の家で、屋根裏近くに熱がこもり茅が発火したもので、僅か10分ほどで焼け落ちてしまったというのだ。

登窯だけは延焼をまぬがれたが、古美術品2000点の大半と書籍が灰燼に帰した。62歳の辻清明は茫然自失、その落胆ぶりは想像するにあまりある。


この二年後の1991年、群馬月夜野の上越クリスタル硝子工場で専門のスタッフの協力の元でガラス作品に取り組んだ。

 硝子筒茶盌 径9.3㎝ 高9.7cm    硝子蕪鉢 径26.1 ×21.3㎝ 高13.6cm

艶を消した紫色の硝子筒茶碗の腰は面取り風にして、高台内に兜巾を施すこだわりをみせ、上越クリスタルの職人たちを驚かせた。
白磁や信楽の自然釉でも制作している蕪鉢は妖しい硝子ならでは動きのある工夫を凝らしている。


【気と明る寂び 辻清明展】Exhibition of TSUJI Seimei

【気と明る寂び 辻清明展】Exhibition of TSUJI Seimei
2024年11月1日(金) ~ 11月10日(日) Exhibition : November 1 to November 10, 2024
休業日:11月7日(木) Closed on November 7 Thu.




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