現代唐津の開拓者‥‥丸田宗彦

  時は平安時代の12世紀後半のことである。粉引唐津人文壷 中国では遼、北宋を滅した女真族が中国北東部の黒竜江省ハルピン市会寧に首府をおいて金王朝を建国している。その3代熙宗(きそう)は皇帝独裁の確立を目指して1138年に都城を上京会寧府(じょうけいかいねいふ)と称し、江南を統治する南宋に多くの銀や絹布を貢納させる臣下の礼をとらせた。華北を支配していたこの12世紀頃に河南省にある鈞窯の陶工を強制移住させ、金朝の御用器を作る命を下した。陶工たちは都城より約600キロも離れた川幅の狭い豆満江(とまんこう)を渡った。(当時は朝鮮半島咸鏡南北道まで金の領地)現在の北朝鮮咸鏡北道の会寧、明川、鏡城などで花崗岩層の砂岩や頁岩、カオリン質の蛙目粘土ほか、燃料の赤松などを発見して陶業を開始した。のちに彼らの多くが松浦党とともに唐津へ渡って波多氏の保護奨励を受け、唐津の北波多城下で初期唐津の斑唐津などを焼成したと思われる。その後、秀吉の文禄慶長の役後、藩主の命を受けて渡来した陶工は肥前の唐津を中心に窯業地を確保する。李参平は唐津焼から有田焼、尊楷は上野焼、八山は高取焼、李勺光は萩焼などを興した。 斑唐津窯変壺     朝鮮唐津窯変角瓶なかでも加藤清正とともに従軍した武雄領主後藤家信は朝鮮陶工の深海宗伝・百婆仙など千人近い陶工集団を連れ帰った。宗伝は武雄市の広福寺に滞在して一年後、武雄市東川登町永野の内田皿屋小山路で良土を見つけ、武雄唐津を開窯させたと伝えられている。ここは織部の影響を受け絵付による茶陶を焼成して武…

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越前の西浦武 逝く

越前の陶芸家・西浦武先生が昨年11月83歳でお亡くなりました。当苑でも個展を開催するなど親しくしていただいた愛すべき陶芸家でした。平成13年(2001)12月に発刊されたPENの表紙を飾ったのが西浦武の作品です。PEN 「全特集・保存版 黒田草臣が厳選した、人気陶芸家の器」というタイトルで、表紙は西浦武の組徳利と平ぐい吞でした。今は亡き中川自然坊、各務周海、柴山勝、原田拾六ら。現在もご活躍中の正木春蔵、黒田泰蔵、隠崎隆一、丸田宗彦、小山智徳、藤岡周平、中里隆、渡部秋彦らの新作433点が掲載されました。西浦武は昭和16年(1941)、福井県敦賀に生まれ、難関大学への入学を支援する名門の東京都立戸山高校から東大法学部公法学科に入学。大学を6年かけて卒業後、鹿島建設に入社されました。前途洋々な出世階段を懸け上っておりましたが、事務方で体を使わず、人に指示する人間関係に心のひずみを感じて30歳で退社してしまいます。以後3年間、精神的なダメージを癒そうと無念無想の境地となって体を使う仕事に没頭することを選びました。難関の大学、さらに一流の会社勤めを放棄しての北は北海道から南は沖縄まで日雇いの仕事を転々としたのです。やがて疲れ果ててたどり着いたのは故郷の北陸だったといいます。組徳利 離すと右側のように傷心の西浦のよりどころとなったのは、地場産業の越前焼です。遠縁で同郷の中村豊を訪ねました。すでに越前陶芸村に「陶杉窯」を開窯して朝日陶芸展で受賞するなど活躍していました。昭和49年(1974)、彼の仕事を見ながら…

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辻清明の仕事

古信楽の名品は枯淡なうちに明るさがあるのが特徴である。 とくに明るい緋色の出やすい信楽の黄瀬土は北大路魯山人をはじめ、川喜田半泥子、加藤唐九郎、八木一夫、鈴木治などが好んで使っていた。 常滑の影響を受けて稼働した信楽焼、紫香楽宮にほど近くで採掘される黄瀬土は鎌倉時代から使われ始めている。昭和時代には信楽土のブランドとなった「黄瀬土」(きのせつち)は‥‥石英・長石の粒を含んだ蛙目粘土で耐火度もあり、薪での焼成を重ねることで自然釉を深く浸透させるという天功のうまみさへ加わり、釉の流れ、釉の溜まりが美しく、明るい土味とともに見飽きぬ風情を添えてくれる。(現在では掘りつくされ幻の土となった) 辻はこの土を使って信楽から遠く離れた武蔵野の面影が残る多磨丘陵に登窯を築窯して独自の信楽焼を開発していく。その辻清明の輝かしい足跡を作品で感じ取っていただけたらと、 しぶや黒田陶苑では 11月1日(金)から10日(日)まで、「気と明る寂び 辻清明展」を開催させていただきます。  信楽窯変茶盌 径14.6 ×12.1㎝ 高9.3cm 辻清明(本名:きよはる)は1927年 (昭和2年) 1月4日、東京府荏原郡世田谷町大字大師堂(現・世田谷区太子堂)に実業家の辻清吉の次男(4人兄弟の末っ子)に生まれた。骨董好きの父親の影響を受け、9歳の誕生日に父にせがんで、透かし彫りのある野々村仁清作「色絵雄鶏香炉」(戦火で焼失)を買ってもらうほど、美術工芸に対して早熟な少年だった。こうした裕福な家庭の影響下で陶芸に興…

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