自分が感動するものを創りたい‥‥十三代三輪休雪

自分が感動するものを創りたい‥‥十三代三輪休雪萩焼の旧御用窯が土や薪が滞るようになった明治維新後、1663年から続いた三輪窯も経済的に自立するために苦難の道を歩まざるをえなかった。昭和二年の不況下の中で松蔭神社の土産品として「松陰先生像」を境内で販売したりした十代休雪。戦後の不況から脱出できたのは1960年以後のことである。日々、茶碗屋の息子として土埃の中での三輪窯の土踏み前の土造りや制作、そして薪割り、窯焚で家族総出の忙しく仕事をするのを見てきた十三代三輪休雪となる和彦。彼にとって忘れえぬ展覧会が開催されていた。それが1964年、東京オリンピックを記念した「現代国際陶芸展」(東京京橋の近代美術館)である。小山冨士夫が日本陶芸の発展を願って海外陶芸との出会いを求め、19カ国を駆け巡って集めたもので、バーナード・リーチ、ルーシー・リー、ハンス・コパー、リサ・ラーソンなどの世界各国の陶芸が一堂に集められた。日本からも当代最高峰の陶芸家も競って計190作家232点が出品され、萩からは十代三輪休雪(休和)と節夫(さだお・十一代休雪・壽雪)が選ばれ、ともに萩茶碗を出品していた。 十三代三輪休雪  “寧”(ねい)東京芸大の陶芸科を専攻していた兄龍作(十二代休雪・龍氣生)の勧めで寝台列車に乗って上京。寛永寺坂の美術研究所に通って木炭デッサンに勤しんでいた時、龍作に連れられこの展覧会を観に行った。日本陶芸には目向きもせず、アメリカの現代陶芸を代表するヴォーカス・ピーターHの鉢に白に赤という強烈なインパクトを感じ…

続きを読む

小山冨士夫

【やきものに捧げて 小山冨士夫】 ‥‥小山先生の生涯はまさに波乱万丈でした。 東京商科大学(現・一橋大学)に入学されたのですが、時は大正デモクラシーの最中でした。社会主義に共鳴した小山先生は家族の反対を押し切って三年で友人とともに中退します。一労働者として第一歩を踏み出すためにカムチャッカの蟹工船で重労働に耐えて三ヶ月の賃金をもらって下船しましたが、帰りの青函連絡船の中で貧しい老婆をみて、その稼ぎをすべて与え、関東大震災では三田の自宅にあった風呂桶を大八車に載せて新大橋から深川八幡まで行き、人々に入浴の奉仕をした。自分の蔵書を売って食物を買って困っている人々を助けたほどのボランテア精神は旺盛でした。小山冨士夫種子島茶碗 小山冨士夫先生が陶磁器に興味を持たれたのは1923年、近衛歩兵三連隊に一年志願兵として入隊した23歳の時でした。同僚に北大路魯山人をよく知る岡部長世がいて、魯山人が京橋で古美術を扱う「大雅堂」(現:魯卿あん)や美食倶楽部を経営していることや中国陶磁器研究者の中尾萬三の話などを聞き陶磁器に興味をおぼえられたようです。小山冨士夫色絵酒觴{花}{間道} 除隊後、中尾の著書『支那陶磁源流図考』を手始めに上野の図書館にあるだけの陶磁器の本を読んだといいます。ですが本を読むことより実践的な陶工への道を選ばれた先生は陶磁器のメッカ・瀬戸と京都で修業されています。瀬戸では兄弟子が小長曽古窯址を案内してくれて、そこで見た朽ち葉色の古瀬戸陶片から得た感動は終生忘れることは出来ないものとなったよ…

続きを読む

曜変天目

 中国の故宮博物院は一九五〇年代以来、中国各地の古窯址を調査している。とくに浙江省の徳清窯・越窯・台州窯武義窯・龍泉窯などを重要視した。そして一九七七年、武義窯古窯址で「窯変藍釉碗」の陶片一点が採集されたという。 その古窯址を私が訪ねたのは今から四〇年ほど前のことである。そこは天目の里・蘆花坪古窯を思わす広大な斜面に福建省の建窯同様に数基の龍窯址があって、夥しい天目茶碗の破片や匣鉢などの窯道具で小山が幾つも築かれていた。ほとんどが「烏盞」といわれる黒釉の陶片ばかりが目についたが、漆黒の釉面に曜変光彩が出ている天目陶片もあった。 天目茶碗のメッカは建窯。福建省付近にある龍窯の数は百を越えるという。水吉鎮後井村及び池中村(水吉窯)には十一基の「建窯」古窯跡があり、高さ十数メートルの物原は十二万平方メートルの広さがある。大路后門の龍窯は長さ一三五・六メートル、一回で二、三万点の天目茶碗が焼成されたといわれるが、そのようなスケールで焼かれた天目茶碗の中に「曜変天目」といわれる曜変光彩が出たものはわずかである。 日本の国宝となっている三点の曜変天目茶碗、その産地といわれている建窯などで曜変のでた陶片は発見されていない。中国ではこの曜変が不吉を意味するといい、窯出し後、破棄してしまったともいわれているが、古窯址にも曜変の出た陶片は発見されることはなかった。曜変天目が伝世していない中国では二〇〇九年末に杭州市内の古城跡地から曜変天目の陶片が発見されて大騒ぎとなった。二〇一二年五月に南宋官窯博物館の鄧禾頴館長…

続きを読む

山田常山‥‥三代目常山のこと

三代山田常山は 朱泥急須つくりの名人 ”朱泥茶注造り”の屈指の名家に生れた三代目山田常山(本名・稔 1924~2005)は、指先に全神経を集中させ轆轤を廻していた。「絶対に尻漏りはしない急須」が、山田家に代々伝わる秘伝だ、という。 私が初めて常滑に行ったのは50年前(1970)。常滑駅からほど近い前田の入り組んだ商店街には小さな映画館が目立っていた。陶業に携わる職工さん目当てだったのだろう。その一角にある常山窯は自宅兼店舗の一階で自作の急須を商いしながら、轆轤を回されておられた。農閑期に自ら田圃で採取した田土を店の裏にある自宅の庭で大甕の中に水を加えて撹拌して、静かに水簸した粘土に、ベンガラを加えて半年以上かけて甕の中で寝かして粘土を造る。そのため軒下には一〇個ほどの大甕が庭を取り囲むようにおかれていた。3代常山作急須五種 こうして熟成させた粘りのある粘土を荒揉みし、ちぎりながら空気を抜き、菊練りして、一つの胴を造る分だけ手廻しの轆轤台にのせ、ベースとなる本体を作った。手元を見ると、まず湯呑のように立ち上げてから腰のふくらみを作り、口つくりを箆で仕上げてトンボ(竹とんぼに似た直径や深さを測る道具)あて寸法を決める。その後、同に合わせて蓋を挽き、細い口の注口や把手をパーツごとに極力薄く轆轤で成形して一、二日ほど半乾燥させる。乾かした各部をカンナなどで削り、注口と把手の角度は直角より、使いやすい八〇度につけ、茶漉しの孔あけは半乾きのとき、胴の外側から竹串で一つずつ開け細かな穴を開けてから胴に注口を取り…

続きを読む

田中佐次郎  炎と闘う 

武雄の金原京一は「斎明天皇期築窯説」という唐津焼起源の伝説を実証するための調査を大正十年からはじめた。七世紀後半に即位した斎明天皇は「百済の仇・新羅を討つ」ため、中大兄皇子(のちの天智天皇)に四万七千人の兵と軍船一〇〇〇隻を百済救援のため扶余へ送くらせた。世にいう「白村江の戦い」である。百済は我が国に仏教や須恵器の技術、科学、文字(漢字)など優れた文化を伝えてくれた友好国である。そのころの斉明天皇が唐津焼を創始するはずはないが、須恵器の到来がこのような伝説を残したのだろう。それでもこの金原の研究は大正から昭和にかけて「唐津焼」を古美術界注目の的となった。陶芸家でも石黒宗麿、川喜田半泥子、北大路魯山人、小山冨士夫、加藤唐九郎、加藤土師萌などが古唐津の魅力に取り憑かれたのは知られるところだ。 唐津茶碗 われらの佐次郎先生もその一人である。初期唐津の古窯址・岸岳道納屋谷を発掘調査して全長39メートルの大きな14連房の登窯址も確認されている。“岸岳崩れ”で、かれら道納屋谷の陶工たちが山瀬に逃げ込んで窯を築いた。僅か二十数年ほどの稼働だが、その間に焼かれた、ほかの窯では得られない“幻”ともいわれる玄妙な古陶片に出会い、再興を決意された。四百年以上放置されていた条件の整わぬ山瀬の山懐に一からの苦労をされる決心をされたのだ。当時、常人の意想を超越した長大な半地下割竹式登窯を築窯することなど、唐津陶芸家の誰もが「無謀だ!」「キチガイ沙汰だ!」と噂した。それでも先生は荒れ果てた原野に、鍬を入れ、五年以上かけて見事に…

続きを読む

魯山人と古美術

魯山人の蒐集した古美術品は時とともに展がりをみせ、総数は五千点を上回っていた。そのひとつひとつが、新鮮なひらめきを大切にする創作上、そこから蝕知される手段は魯山人にとってはもっとも重要なものだった。すでに書家として硯をはじめとする文房四宝には拘っていたが、魯山人の修業時代、各地で食客となって古美術品の鑑賞によって鋭い審美眼を養いながら、実際に使用する茶道具、また料理における食器の役割の大切さを、制作するだけでなく使う楽しみとともに実践していったのである。  魯山人作 そめつけ竹鉢  蒐集の第一歩となったのは、23歳の時だった。明治38(1905)年、日本橋檜物町にあった帝国生命の文書係に就職した時のこと。京橋の東仲通りにあった古美術店でギヤマン紅切子鉢に魅せられた。それは三円五十銭、月給に匹敵するものだったが、無理して三回月賦にしてもらって手に入れ、会社の昼時に、純白の豆腐をこの鉢に入れて、美味そうに食べた。魯山人作 備前土ひだすき大鉢「昔から物は好むところに集まるとさえ言われている。眼のある所に玉が寄る…という諺もあるではないか。僕は二十才の頃から縁日その他で小さいものを少しずつ集めた」といい、大正5年には神田駿河台で『古美術鑑定所』を設け、さらに大正8年には京橋に古美術品を販売する『大雅堂』を開店させた。昭和6年、会員同志が愛蔵の古美術を持ちよって鑑賞する親睦会『洞天会』を星岡茶寮で発足させている。星岡茶寮の会員に茶寮内で各々茶席を持たせ、茶器は茶席で実際に使い、持ち寄った食器は会食の折りに料…

続きを読む

丸田宗彦 ‥‥ 作陶40周年記念展

2020 作陶40周年を迎える宗彦唐津 もう40年も前のことになった。この1980年はオリンピックをボイコットした年でもある。この年、高校を卒業した丸田宗彦が、民芸陶の父ともいうべき浜田庄司の三男浜田篤哉に弟子入りした。4年間の修業を終えて故郷の黒牟田に帰り、黒牟田焼の父丸田正美のもとで作陶をはじめた。昭和62年9月に唐津の古窯址が点在する武雄で「内田皿屋(うちださらや)窯」を築窯して独立した。現在は一気に1300度まで薪をくべ、一昼夜半の窯焚を年に7~8回のペースで斑唐津や朝鮮唐津、粉引を主力に焼成している。梅華皮や奥高麗、高麗茶碗など奥深い釉調の本質を突き詰めるため、ゆっくり温度をあげ、ゆっくり冷ます穴窯が不可欠と考え、地名をとって「皿屋川登(さらやかわと)窯」を築いた。効率の良い登窯に頼ってきた唐津では珍しい半地下式穴窯で、年に2度、この小さな窯を3昼夜必死に焚いた。それから、はや20年が経過した今年、作陶40周年を迎えた節目の年となった。新作の奥高麗茶碗を手にとってみた。質感が今までの彼の作品とまったく違うのに驚いた。土も釉も新たに開発したのだといわれ納得した。今まで内田皿屋、小峠、川古、錆谷、百間、黒牟田、祥古谷などの地元武雄唐津の古窯址をはじめ、初期唐津の宝庫・岸岳諸窯や山瀬、佐里、櫨の谷、藤の川内。そして多久高麗谷窯、甕屋の谷・焼山・道園・阿房谷・市ノ瀬高麗神など古唐津の名窯50か所以上を訪ねては土を手に入れ、毎年、土造りに励んできた。その昔、桃山時代の陶工から顧みられることなく眠…

続きを読む

目の眼「東京 京橋」‥‥変わりゆく古美術の街

京橋ゆかりの人 北大路魯山人 魯山人と京橋魯山人と京橋 魯山人芸術の根幹をなす書道、そして絵画、篆刻、料理、陶芸など‥‥ずば抜けた知性と行動力をもって革新的な可能性を見出し、それらを融合させた“魯山人芸術”の基礎を創ったのが京橋時代であった。魯山人「風雅陶苑」消失するまで東仲通りあった二頭立ての馬が軌道の上の車輛を引っぱる鉄道馬車が京橋~上野~浅草間を走っていた明治三六年(一九〇三)、時まさに日清戦争に勝って国運の高揚し、煉瓦造りの洋館やガス灯など西欧化が進んでいた。日本男児なら誰しも徴兵検査を受けなければならない二〇才となった魯山人は、近視のため兵役が免除された。この年、「あなたは上賀茂神社の社家・北大路家に生まれ、生母の登女は東京にいる」と叔母の中大路屋寸から聞かされた。六歳の時、五番目の養父母となった時から福田姓を名のってきたが、「きたおおじ(・・・・・)」という響きに生家への誇らしさを感じた。これを期に書家として大成したい、まだ見ぬ母登女に一目会いたいと上京を決意した。勤めていた西洋看板屋からの給金五円を懐に上京し、屋寸の娘カネの嫁ぎ先である東京市京橋区高代町「松清堂」の丹羽茂正を頼った。ところが母には人目をはばかるように冷たくされ、中林梧竹ともに「明治の三筆」といわれた巌谷一六、日下部鳴鶴に会うがその姿勢に失望して、独歩の道を歩むこととなった。書道塾を営む魯山人の教え方は理詰め、弟子たちは分かりやすく教えてもらえることで評判を呼び、翌年、日本美術協会美術展覧会に初出品した「隷書千字文」が…

続きを読む

しぶや黒田陶苑 50周年記念展 『田中佐次郎 自撰 五十』

田中佐次郎先生が30代のころ、安土桃山時代に焼かれた唐津の名窯を足繁く発掘調査されていた。岸岳の斑唐津をはじめ、牛石、阿房谷の絵唐津、そして幻の名窯と謳われた山瀬下窯では絵斑唐津に魅せられ、凄まじい「古唐津再現」への意欲に燃えてこられた。 井戸茶碗独立されて登窯を築かれたのは長閑な田園地帯にある唐津常楽寺の境内。半田川の清流に石橋が架かり、渡ると常楽寺の山門。二階部分が鐘楼堂になっていた。佐次郎先生が40才のころ、その川沿いにある登窯と工房にはじめてお邪魔した。お会いすると穏やかな優しさのなかに、ひとたび斑唐津や加藤唐九郎、小山冨士夫の話になると若武者のごとく眼光炯々となる。辰砂ぐい呑   絵唐津徳利・ぐい呑「高台のチリメン皺に醍醐味があり、土味は明るくて品格を感じさせる山瀬窯を再興したい」といわれ、数年後、山深き山瀬に分け入り、苦行難行のなか荒野を整地して谷川の流れる絶好地に長大な15連房の割竹式登窯を50歳の時に築かれた。耳付花入当苑での初個展は1985年、以後、毎年のように開催していただき、「山瀬築窯記念展」、「30周年記念 三十碗展」、「40周年記念 高麗茶碗展」などその節目ごとに驚愕ともいえる作品を発表されてこられた。瑠璃天目茶碗この度、当苑は50周年を迎えての「田中佐次郎 自撰 五十」展として、初窯以来、挑んでこられた「斑唐津」や李朝古窯址を巡って掴みとられた「井戸茶碗」という佐次郎先生渾身の新作をお願いした。         しぶや黒田陶苑   黒田草臣魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部…

続きを読む

『巨匠の高麗茶碗』‥‥炎芸術別冊 高麗茶碗

巨匠の高麗茶碗明治時代、文明開花の名のもとに押し寄せた西欧様式やオートメーションなどの新しい技術や機械の導入が、古き良きものを捨ててしまう新しい価値観を生み、わが国の「侘・寂」という独特の美意識が無視されてきた。李朝代に焼かれた高麗茶碗も日本の一部の数寄者だけがその良さを理解しるにとどまっていた。ようやく桃山復興や高麗茶碗の再現が叫ばれてきたのは昭和時代になってからだ。「井戸、三島、粉引、無地刷毛目、刷毛目、熊川、斗々屋、蕎麦、呉器などの上釉は高麗青磁の流れを汲むものだ」と、本物を知る川喜田半泥子や北大路魯山人らを筆頭に、粉引、刷毛目など白を際立たせる透明釉(石灰釉)ではなく、青磁釉を掛けて匣鉢を使わず薪窯での滋味あふれた高麗茶碗の再現に成功した。真摯に高麗茶碗を追いかけた河村蜻山の「三島茶碗」や吉賀大眉の「井戸茶碗」も心に残る秀逸な作品を残している。川喜田半泥子 井戸茶碗 銘「白菊」東の北大路魯山人とともに自由な多芸多趣味の人生を貫いた西の川喜田半泥子。「数寄者の作陶だ」とみられがちだが、その研究心はプロの陶芸家顔負けだ。高麗茶碗においても1913年から朝鮮半島に渡って各地の陶土を掘り当て、「李朝初期」を好み、井戸や刷毛目、粉引、割高台などを制作するようになる。1934年には鶏龍山古窯址を発掘調査してから築窯のヒントを得た半泥子は自らの手で胴木間を長くした三袋の登窯を築いた。その数年後の1937年、高麗茶碗の「無地刷毛目」が焼かれた全羅南道務安郡望雲(マウン)半島にあった廃窯を直して全長六、七メ…

続きを読む