十三代三輪休雪襲名 雪嶺展

既知の陶芸の枠を超越した巨大なオブジェを構築され、近年では「エル キャピタン」という大自然からの圧倒的な存在感をイメージされた茶陶を創られて、私たちを掌の世界でも魅了してくれる和彦先生が三輪家の十三代目休雪を継がれ、とてもうれしく心よりお祝い申しあげます。 ※これを記念して、東京日本橋、京都、大阪、名古屋の高島屋各店にて「十三代 三輪休雪襲名 雪嶺展」が、9月18日から開催されます。 どうぞ渾身の力作をご高覧いただきたくご案内申し上げます。 雪嶺 / 花器土との鮮烈な交感茶味を湛える三輪家の門をくぐり、苔むす侘びた佇まいの不走庵に初めてお伺いしたのは、もう半世紀近く前のこと。十代休雪先生が、ご隠退なさって「休和」を名乗られ、弟の休先生が十一代休雪を継がれて間もなくのことでした。明治維新とともに苦境に立たされていた萩焼でしたが、十代休雪(休和先生)は、それまでの萩にはなかった独特の「休雪白」を創始し、茶の湯のみならず鑑賞陶芸として萩焼の地位を高められた“萩焼中興の祖”でもありました。 ご尊父・十一代休雪(壽雪先生)は、轆轤に頼っていた花入や水指、喰籠などを土の塊から刳貫いて制作され、さらに原土をより分けた荒々しい土を使った白萩茶碗に十字高台や花冠高台という凄まじい迫力から立ち上がる「鬼萩茶碗」を創りあげられました。「手が傷だらけになるが、これぞ鬼萩というのをやってみよう思った」といわれ、慣習的な茶の湯のお道具を作る保守的な萩焼にとって衝撃的ともいえる圧巻の萩茶碗を創られました。…

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曜変天目‥‥その真に大接近

曜変天目は「ヨウヘン」、「容変」、「耀変」、「影星」などといわれてきた。 『東山御物』にある美の中でも茶碗の王座を占めていた曜変天目は、天空の神秘さを思わせ珍重されている。 現在、その国宝『曜変天目』の三碗が、MIHO MUSEUM、静嘉堂文庫美術館、奈良国立博物館で同時期に公開という千載一遇のとき、第二回「曜変天目 瀬戸毅己展」の開催の運びとなりました。 瀬戸毅己曜変天目茶碗 曜変天目を再現するのは“至難の業”である。 初めての人間国宝となられた石黒宗麿先生は、 「あまりにも豪華な、宝石をちりばめたような曜変天目茶碗。‥‥僕は一生かかって曜変天目の色見をしていたようなものだ」(月刊文化財)といわれ、 窯変米色瓷を完成させた岡部嶺男も、44歳の頃から天目に挑み、 「耀窯天目盌」や「窯変嶺燦盌」を完成させるも道半ばで倒れられてしまった。 また今日の陶芸界においても、数名が挑んでいるが、どれも写しの範疇がぬぐい切れない作品ばかりだが、 瀬戸毅己の曜変天目は真に迫っている。 昨年、ご好評をいただいた「曜変天目 瀬戸毅己展」から丸一年が経過して、 この一年間、曜変天目を狙った窯焚は80回に及んだ。前回より10回増えたことになる。 曜変天目見込 瀬戸毅己先生の曜変天目へ賭ける強みは、徹底した釉薬の研究と不純物の多い黒胎の素地、それに不安定な窯である。 窯は灯油窯。ガス窯や電気窯のようにコントロールしやすい窯ではないから、焼成に…

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曜変天目の茶碗や酒盃

曜変天目2019.5瀬戸毅己 曜変天目は生産地の中国において、これまで文献上の記述もなく、現物はおろか、陶片ですら見つかっていない状態であったが、2009年末に杭州市内の工事現場から曜変天目の陶片が発見された.。 曜変天目の出土場所は、南宋の都がおかれていたかつての宮廷の迎賓館のような所だった。(2012年5月に中国の杭州南宋官窯博物館館長・鄧禾頴が発表) この陶片は昨年、当苑での個展で発表された瀬戸毅己の曜変天目に酷似している。 瀬戸毅己 曜変天目部分2018.5 濃い瑠璃色から銀色にいたる神秘的な輝きをみせる瀬戸毅己の曜変天目。 厚くかかった天目の複雑な釉景、土見せの焼きしまった黒胎など、 上辺だけの輝きでない深味を伴った曜変天目である。 曜変天目茶碗2018年個展出品作 今年も5月24日から開催される、しぶや黒田陶苑での「曜変天目 瀬戸毅己展」での曜変天目茶碗、そして曜変天目酒盃をご期待ください。 瀬戸毅己曜変天目酒盃(2018年個展作品) 曜変天目 瀬戸毅己展 会期:2019年5月24日(金)~28日(火) 会場:しぶや黒田陶苑 魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地  魯卿あん‥‥Rokeian 〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    TEL: 03-6228-7704 FAX: 03-6228-7704 営業時間:11:00~18:00 Email:rokeian-kuroda@jupiter.ocn…

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丸田宗彦 2019年展

肥前武雄の丘に佇む丸田宗彦邸‥‥ ここ唐津古窯址の郷に、登窯と新居を設営したのは三十年以上も前のことになる。 五風十雨の時を経た名庭を見るような木漏れ日の差し込む路地に一歩踏み入れると、踏石と苔の対比が茶趣を湛えて迎えてくれる。 陶芸家には抜群の環境の中、唐津では珍しい穴窯、そして伝統の登窯で焚き続けてこられ、 桃山時代から続く唐津焼を、より伸展させて『宗彦唐津』というべき作品が窯出しされ、その度に目を瞠らせる。 朝鮮唐津壺 桃山の昔、高雅な茶陶を焼いた唐津だったが、江戸の前期から昭和の初期まで長いトンネルをくぐって、 ようやく陽の目を見たのは石黒宗麿をはじめ加藤土師萌、小山冨士夫らの諸先生がその魅力を世に広めた昭和時代になってからだ。古唐津再興とその隆盛を力強く後押しされてきた。 こうした礎のもと、常に研鑽を怠らず、古唐津の魅力を一歩進めた『宗彦唐津』は “やきもの”の面白さで応えてくれた。 斑唐津壺 古伊賀や備前をも凌駕する激しい焼上がり感じさせる斑唐津や朝鮮唐津の壷。 桃山時代に美濃で焼かれた瀬戸黒をも髣髴とさせる引出黒茶盌。 自信のほどを、淀みない描写力で魅せる絵唐津や絵粉引など…… 唐津黒茶碗 長男の宗一廊君が武雄の窯で初期伊万里を、益子で修業された次男の雄君も父が育った黒牟田の大きな登窯を継承して絵唐津を追及されているから、丸田に後顧の憂愁はない。その笑顔も晴れやかに感じとられ、将に潮の満つる58歳の春がきた。 丸田宗彦展 会期:…

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田中佐次郎 … 心豊かな人間性も投入

なだらかに起臥している山脈(やまなみ)と鏡のようにおだやかな玄海の潮(うしお)が望める海抜700メートル山頂の山瀬‥‥ この自然風光を独り占めにする陶匠は、陶も禅も掌中の珠だと諦観する禅者の境涯を持っている。 それは世俗的な名利に囚われず、枯淡の域に徹底しているからだろう。 唐津石はぜ茶盌銘「朝まだき」  唐津の常楽寺の境内に窯を築いた数年後に先生をはじめてお訪ねした。 当時の唐津陶芸界にあって、希少な俊雄として向後を背負う作陶家だと直感した。  永平寺の教義を尊奉する先生は終始ものごとを善意の目で貫き通され、啐啄(そったく)の機(き)そのままに、辛抱強く精進され、窯焚には全神経を傾注する。その窯炎のなかに渦を巻きあげる転廻(りんね)転生(てんしょう)の光焔が格段と輝く天意をも掴み取られたのだ。 唐津片身替茶盌銘「立弁慶」 行動力は作品に反映する。精進潔斎(しょうじんけっさい)して心身の遍歴を重ねた心念のもと、山瀬の山肌を覆っている土を掘りだし、土の感触からそそられた感興のままに轆轤を蹴る。 その茶盌の立ち上がりは生気溌溂、口作りは歯切れのよく、高台は逞しく小気味よい。さらに焔の洗礼を享けた色沢は滋味掬すべき深い味わいが窺(うかが)えて私たちを強く惹きつける。 茶陶の極天は侘びの境地。終生かけてやり通す情熱もさることながら、自己陶冶を推し進められ、神気をも味方にした覇気が漲(みなぎ)り、より深く茶味を漾(ただよ)わしている。                          …

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小山冨士夫展 「やきものに捧げて」‥‥しぶや黒田陶苑50周年記念

五十周年ご挨拶 思い起こせば、半世紀前の1969年(昭和43年)1月、数寄屋橋で3坪の店を借りて、小さな一歩を踏み出しました。 なによりも多くのみなさまに支えられ励まされて、作り手とコレクターの方々との真剣勝負の臨場感を、執り持つ機会を与えていただきましたのは幸運であったと感じ入っております。 深いご支援の賜物と心より厚く御礼を申しあげます。 これからも「使う楽しみのある美」を追求しながら、近現代の巨匠陶藝家の逸品を厳しい眼で選び皆様にご紹介してまいります。 たゆまず精進を続け皆様と対話をしながら美術商の本道を彼らと邁進してゆきたいと思います。 今後とも“しぶや黒田陶苑”ならびに“魯卿あん“を、なにとぞご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます 50周年という節目の年、まずは独立する前から公私ともに大変お世話になった小山冨士夫先生の個性あふれる作品を「50周年記念展」の第一弾として一堂に展示させていただきます。 しぶや㈱黒田陶苑 黒田草臣 小山冨士夫先生の想い出 「わたしを焼ものの道に踏み込ませたのも古瀬戸の陶片だし、私をさんざん苛めたのも古瀬戸の陶片である」と『永仁の壷事件』が明るみにでてのちに語られましたが、 小山先生ほど波乱万丈の生涯を送られた方を私は知りません。 大正デモクラシーの最中、社会主義に共鳴して家族の反対を押し切って東京商科大学(現・一橋大学)を三年で中退された。その後、ひとりの労働者として第一歩を踏み出すために蟹工船に乗り…

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井戸茶碗はどこから来たのか‥‥韓国古窯址を訪ねる

淡交社『なごみ』2019年1月号  大特集 茶人が愛した素朴のうつわ 高麗茶碗 なごみ一月号 P28~31 寄稿しました。その書き出しを… 井戸茶碗はどこから来たのか‥‥韓国古窯址を訪ねる 木立を渡る風や土の匂い……古窯址は果てしなく私のロマンを掻き立ててくれる。 うち捨てられた陶片から作り手の日常がみえ声さえ聞こえるような高麗茶碗の古窯址を訪ねはじめたのは40年ほど前、街にはハングルより漢字の看板が多かった頃だった。 松林が清々しい整備された『熊川古窯址』(2016年) 高麗茶碗を思う時、興味が尽きないのは茶趣深い井戸や三島、粉引茶碗が李朝初期に焼かれていたことだ。仏教の高麗から儒教の李朝へと国の理念も大きく変わったその時に、高麗時代では優遇されていた陶工の多くも賤民になり、弾圧を受けた僧も行き場を失った。素朴な作振だが品格ある高麗茶碗を誕生させたのは、生きるために陶工と有識者の僧侶が力を合わせ、人里離れた山間に窯を築いたからだと思う。 2009年古窯址で陶片をみる 高麗茶碗の王者として日本には数多く伝来している井戸茶碗だが、韓国には美術館や博物館にも伝世品は一点もなく、古美術店にも陶片すら皆無だった。 柳宗悦は「それは朝鮮の飯茶碗である。それも貧乏人が普段ざらに使う茶碗である。全くの下手物である。典型的な雑器である。一番値の安い並物である。作る者は卑下して作ったのである。」というが、はたしてそうであろうか。 浅川伯教は「井戸茶碗の形式を見かけな…

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丸田宗彦‥‥無類の逞しさで現代唐津を担う

古唐津と現代唐津の融合を見事に実現し、昨春には独立30周年の記念展を開催させていただきました。 そして今年は、当苑での個展が25回目を迎える節目となりました。 丸田宗彦唐津ぐい呑 丸田宗彦先生は1961年に黒牟田焼の窯元に生まれ、益子焼で修業して帰郷されて三年後、古唐津名窯の里・武雄に登窯を築いて独立。独立当初、民芸陶と唐津焼の両党使いの作陶を続けられていた。 当苑での初個展を経て、「唐津焼に一本に絞ったら」と助言した思い出があります。 彼の返事は「古唐津が好きです」と答えてくれた。 初対面は謙虚で先天的な善性さが印象的な青年でしたが、陶芸の三本柱(焼・土・作り)に対しては無類の逞しさをもち、その作風に対する心意気も並外れていた。 丸田宗彦朝鮮唐津窯変壺 朝鮮唐津や斑唐津はもとより焼締の粉引、梅華皮唐津、奥高麗、井戸、割高台、御所丸、刷毛目、三島、引出黒、織部、白織部、楽など、今まで唐津焼の範疇では思いもつかなかった技法をも取り入れた。 新しきものごとは真っ当には運ばないものだが、奇を衒うことなく耽々と加味し、唐津焼の新しき時代の流れを作ってきた。すべて努力の賜だが、前に遮るもの無きがごとくに、順風に帆を孕むごとく日を追って丸田宗彦の名を高めてきた。 奥高麗茶碗 古唐津のよさは、土のよさでもある。作り易くするために土をブレンドすることが多い昨今だが、古唐津への情熱が燃え滾り、自ら土を掘り、その特質を生かす単味で使うように心がけている。登窯と穴窯という性格の…

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魯卿あん  【大芸術家 北大路魯山人展】

『魯卿』と号するようになった北大路魯山人35歳の時、鎌倉の円覚寺に連なる六国見山を背にした明月谷に茅葺きの田舎家を住いにして「北大路魯卿」の表札を掲げました。 北大路魯山人銀刷毛目徳利と志野ぐい呑 ここ京橋東仲通りに古美術店『大雅堂芸術店』を開店したのは翌大正八年五月のことです。 鼈甲縁の丸眼鏡をかけ、自ら蒐集した古美術品を陳列しました。 魯卿は黒い中国服を着て、夏になるとステテコにチジミのシャツを着て店番をしながら時折、二階で依頼された篆刻など大きな体を精力的に動かし、毎晩帰るのは十一時半の最終電車。 東京駅から乗りこんで大船駅から人力車で帰宅しました。 大雅堂芸術店のちに美術店 北大路魯山人先生が「魯卿」と名乗り始めたのは、大正5年(1916)の33歳になった時です。岡本可亭の書生となって以来、唐代の「顔真卿」(顔魯公) に傾倒しておりました。魯とは愚か、大ざっぱで間が抜けていること。その「魯の字が好きだよ」と『魯卿』と名乗っています。 翌年には、神田駿河台のシンボルでもあるニコライ堂(東京復活大聖堂教会)の鐘の音が心地よく聴こえる紅梅町の借家に「古美術鑑定所」の看板を掲げて、書と篆刻の仕事もしておりました。 鎌倉に越したのは大正7年のことです。アジサイ寺といわれる明月院の門前にあった高梨家を借りました。谷川に架かる石橋を渡った茅葺き屋根の田舎家と納屋のような小屋があり、ここに「北大路魯卿」の表札をかけました。夏になると好物のスイカを谷で冷やし、家族皆で食べる…

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曜変天目‥‥瀬戸毅己"The mystery of Yohen Tenmoku"

曜変天目の謎  ‥‥ 漆黒の釉面が光を浴びると瞬く星のような大小の斑点が現れてくる「曜変天目」。 素地は鉄分の多い灰黒色の陶胎。これに光沢のある紫黒の天目釉が厚くかかり、あたかも星が瞬くような瑠璃玉虫色の斑紋が表われることから「曜変」(曜=星輝くの意)と名付けられた。 風流数寄の道を探求した足利義政の「東山御物」にある美の中でも茶碗の王座を占めて珍重されていた曜変天目‥‥その目録である『君台観左右帳記』によれば 「地は大変黒く、濃い瑠璃色や淡い瑠璃色の星型の斑点が一面にあって、黄色や白ごく淡い瑠璃色などが種々混じって、絹のように華やかな釉もある」と記され、 「曜変。建盞の内の無上也。天下におほからぬ物なり。萬匹のものにてそろ」とも記述されているほどの宝物である。 現在、『曜変天目』は世界に三点しかなく、全てが日本の国宝に指定されている。これらの曜変天目は800年前の宋代に福建省建窯の蘆花坪で焼かれたのではないかといわれている。ここには面積12ヘクタール、高さ10数メートルに及ぶ夥しい天目茶碗の陶片や窯道具が散らばっているが、今日まで曜変天目の陶片は一点も見つかっていない。 あるいは浙江省の武義窯で焼かれたものなのか、その出自の謎は深まるばかりである。 上辺だけのものではない 『曜変天目』を再現 志野織部黄瀬戸を追及していた瀬戸が曜変天目を実見して感動を覚えた1990年、『中国陶磁史』という論文に出会い、その中にあった天目の組成を調合して焼いてみ…

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