茶の湯…茶碗の参考書……やっぱり、名碗

「目の眼」という月刊誌にある 骨董入門のコーナーで、「入門者向けに茶碗の参考書になる本を…」ということで拙文を、、、 古美術商のすすめる参考書 ……やっぱり、名碗 「目の眼」七月号 通巻490号 今年は茶碗の展示会が続いている。 国立近代美術館での「茶碗の中の宇宙 一子相伝の芸術」という利休の愛した楽茶碗の世界を企画展示、さらに東京国立博物館での特別展「茶の湯」では、国宝の「油滴天目」、「喜左衛門」、「卯花墻」、そして重要文化財の「馬蝗絆」「柴田」「無一物」「時雨」など唐物・高麗・和物から選ばれた天下の名碗。 武将や茶人などが愛し、人をつき動かすパワーを持っていた「名碗」‥‥ それは口造り、見込、高台はもとより、立ち上がる轆轤の伸び、腰の力など見どころ満載。 加えて魅力ある胎土やその削りの味、深味ある釉などを愛でる。 おいしくお茶を飲める名碗はどれも気品を備え、喫するほどに新たな感動を与えてくれたのだろう。 「大正名器鑑」(全九編) “茶碗の入門書”ということで、はじめて広く知られるようになったのは、大正十年から昭和元年にかけて高橋箒庵(義雄)によって編纂刊行された「大正名器鑑」(全九編)であろう。茶入などともに六編から九編までは茶碗の名品が写真撮影されている。 「茶碗」(平凡社)木の葉天目の項 平凡社刊行の「茶碗」は昭和四一年から四三年に全五巻が1200部発行された大型本。 監修者:小山冨士夫 ほかに満岡忠成、長谷部楽爾、佐藤雅彦、藤岡了一、林…

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天目茶碗は北宋の徽宗皇帝によって‥‥木村盛康「傘寿」

なぜ、「建窯」は天目茶碗の故郷なのでしょう‥‥ 中国福建省建陽県水吉鎮周辺にある水吉窯・芦花坪窯・大路后門山窯・長乾窯・源頭坑窯・牛皮崙窯跡などが建窯の総称でその総面積は12万平方メートルという広大さの中に百を越える巨大な龍窯がありました。 なかでも大路后門山窯の龍窯は135,6メートルという長大なものでした。ここにはほかに晩唐、五代に使われた青磁窯2基、元代の青白磁窯1基が確認されています。 8年ほど前に訪ねた時にはそれを物語るように天目の陶片の他に青磁の陶片も見つけることができました。また同安窯で焼かれたような「珠光青磁茶碗」を思わすような猫描き手の陶片もありました。 遇林亭古窯址龍窯 青磁を焼いていた窯が黒釉の天目茶碗を焼くようになったのは、五代から宋代にかけて興った抹茶(碾茶)の流行でした。 それまで喫茶用の茶碗として使われていたのは越州窯で8世紀の唐代から焼かれた『青磁』と刑州窯で焼かれた『白磁』が主流で、透明の茶には「青磁や白磁」の碗が美味しそうにみえて似合ったからでしょう。 宋代になると上流階層では泡立った不透明な緑の抹茶をきわだだせるために黒釉の『天目茶碗』が流行してきました。手にもっても天目茶碗は熱くならないなどと歓迎されたのです。 奨励したのが北宋の第8代皇帝の徽宗です。 「美味なるモノ、美しいもの」を大切に風雅の道を説いた文人皇帝。茶が美しく映える天目の「兎毫盞」(禾目天目)を愛しました徽宗が著した『大観茶論』には、「盞色貴青黒、玉毫条達物為上」…

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田中佐次郎‥‥芯に一本、強い我を秘めている

一握りの土塊が人の心により森羅万象を刻み、あらゆる感情を包蔵するものが、陶芸だと思い知らされたのは、35年前のことである。唐津市半田にある常楽寺の境内に登窯を築かれていた田中佐次郎先生(当時45歳)の陶房を訪ねた時からであった。 数年後、“幻の名窯”と謳われた山深き山瀬に半地下式15連房窯を築かれた。 さらには唐津のルーツでもある韓国の嶺南(ヨンナム)アルプスの麓に半地上式六連房の登窯を築き、 精魂を傾けた高麗茶碗をより純度高く再現されている。 先生にとって、土選びと炎への執念は“終世の命”である。 その火と土、そして清冽な山瀬の湧水との結合を求めて遮二無二(シャニムニ)、まさに狂人の如く追及して止まるところがない。その恐るべき土への執念をもって、古唐津の名窯岸岳や山瀬、牛石などの土、さらに朝鮮半島を巡って探し求めた土は1000種類を超えた。 斑唐津や朝鮮唐津、絵唐津はいうまでもなく、独自に謳いあげる「青霄(セイショウ)」、「辰砂耀変」「朱砂天目(シュシャテンモク)」「毘沙唐津」「玄黄(ゲンオウ)」「黒刷毛目」さらに「朱雲(シュウン)」「雲霄(ウンショウ)」など、 清新な作風に、心高き鑑賞者たちが惜しみない拍手を送っている稀にみる本格陶匠である。 孤高独自の節を曲げない田中先生の繰り出す爽清の陶技は観る者の心魂に響き、貴重な芸術家として後世に語り継がれるに違いないと信じるものである。 平成二十九年四月二十二日              黒田草臣 (福岡岩田屋三越…

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連休明けの『魯卿あん』の室礼……

連休明けの『魯卿あん』‥‥ 北大路魯山人 於里遍カゴメ花入 軸装:菖蒲 花:蛍袋とリョウブ 北大路魯山人書「陶」 伊賀花入  花:山芍薬・令法・矢筈ススキ 加藤唐九郎 唐津茶碗   菓子:大宰府梅園 『宝満山』 魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地  魯卿あん‥‥Rokeian 〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    TEL: 03-6228-7704 FAX: 03-6228-7704 営業時間:11:00~18:00 Email:rokeian-kuroda@jupiter.ocn.ne.jp 黒田草臣 BLOGはこちら しぶや黒田陶苑のホームページに戻る   辻岡正美様の撮影

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ヨモギ蕎麦、そして有平糖で一服

今年もヨモギが道端に生えてきました。 新芽を積んで湯がき、純白の更科粉に打ち込みました。 変り蕎麦の中では、「ヨモギ蕎麦」が一番好きです。 ヨモギ蕎麦 お客様用のヨモギ蕎麦黒田泰蔵の白瓷高台皿に盛り付けてみました。蕎麦猪口は古伊万里です。 有平糖で一服 「有平糖(アルヘイとう、ありへいとう)とは、砂糖を煮て作られた飴の一種であり、南蛮菓子の一つである。金平糖と共に、日本に初めて輸入されたハードキャンディとされている。阿留平糖、金花糖、氷糸糖、窩糸糖とも呼ばれる。」とあります。京都の小さなお菓子屋さんで作られた有平糖をいただきましたので、自然坊の斑唐津茶碗で一服です。 魯山人「大雅堂」・「美食倶楽部」発祥の地  魯卿あん‥‥Rokeian 〒104-0031 東京都中央区京橋2-9-9    TEL: 03-6228-7704 FAX: 03-6228-7704 営業時間:11:00~18:00 Email:rokeian-kuroda@jupiter.ocn.ne.jp 黒田草臣 BLOGはこちら しぶや黒田陶苑のホームページに戻る   辻岡正美様の撮影

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丸田宗彦の歩み ‥‥ 独立築窯三十周年記念展

丸田宗彦 … 開窯三十周年によせて  開窯されて30周年を迎える丸田宗彦の生まれ故郷は民芸陶の里・黒牟田である。 ご祖父は、昭和四年から黒牟田焼の再興に力を注いだ丸田寅馬(明治三十四年生)。 そのあとを継いだのはご尊父の丸田正美(大正十四年生)である。 昭和十七年、佐賀県立有田工業高校窯業科を卒業してのち、昭和二十五年、益子の濱田庄司に師事して、わずか二か月ながら民芸陶の力を熱心に学び取られた。黒牟田の伝統技法に、益子で会得した塩釉などを個性豊かに加味して民芸陶黒牟田焼を確立されて日本工芸会正会員となられ『九州民芸陶の雄』といわれた方である。 得意の塩釉の鉄砂呉須のほか、鉄絵を施した藁灰釉や黒流描文、刷毛目、辰砂、伊羅保釉などで扁壺や大鉢を作られていたが、昭和五十四年十二月に五十四歳の若さで亡くなられた。 正美の次男・丸田宗彦が高校三年生の時であった。翌年、宗彦は高校を卒業後、ご尊父の逝去の悲しみを抱きながら陶芸家を目指し、一人険しい道を選んで栃木県の益子へ。バナード・リーチ工房で修業された浜田庄司の三男・濱田篤哉に四年間も師事され、見聞を広めてきた。 子供の頃から裏山の雑木林にある古窯址の物原が遊び場だった。 そこには、桃山時代から江戸時代に朝鮮陶工の帰化人が窯煙をあげた錆谷や山崎など古唐津の陶片がザクザクあったという。 益子から黒牟田に帰った宗彦は、手始めに古窯址を巡って良土を探し歩いた。二年後、結婚と同時に古唐津再現を目指して武雄に三袋の登窯「内田皿屋窯」を築窯…

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『大藝術家 北大路魯山人展』 … 魯卿あん

ここ東京京橋も2020年に向けて再開発が進み高層ビルの建設ラッシュです。 昨秋、32階建て 1フロア820坪のエドグランが京橋駅に隣接して完成しました。 それでも 魯卿あんがございます東仲通りは静かな街並です。 今年も4月14日(金)-15日(土)に 『数寄です、美術の街 東京 アート アンティ-ク』が日本橋・京橋を中心に開催されます。 こちら魯卿あん では 2017年4月10日(月) より22日(土) まで 『大藝術家 北大路魯山人展』を開催させていただきます。 ぜひお出かけいただき、ご高覧くださいませ。 むさしの鉢 『大藝術家 北大路魯山人展』図録文 北大路魯山人先生が「魯卿」と名乗り始めたのは、大正5年(1916)の33歳になった時です。 岡本可亭の書生となって以来、唐代の「顔真卿」(顔魯公) に傾倒しておりました。 「魯」とは愚か、大ざっぱで間が抜けていること。その「魯の字が好きだよ」と『魯卿』と名乗っています。 翌年には、神田駿河台のシンボルでもあるニコライ堂(東京復活大聖堂教会)の鐘の音が心地よく聴こえる紅梅町の借家に「古美術鑑定所」の看板を掲げて、書と篆刻の仕事もしておりました。 鎌倉に越したのは大正7年のことです。アジサイ寺といわれる明月院の門前にあった高梨家を借りました。谷川に架かる石橋を渡った茅葺き屋根の田舎家と納屋のような小屋があり、ここに「北大路魯卿」の表札をかけました。 夏になると好物のスイカを谷(ヤツ)で冷やし、家…

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金重素山 ‥‥ 火水土のご恩

「耀盌」と呼ばれる独創的な楽茶碗を最晩年に創り出した出口王仁三郎(1871~1948)は、 昭和23年1月、天界へと旅立った。 出口王仁三郎 耀盌 明治25年(1892)に綾部で開教した宗教法人「大本教」は開祖・出口なおを初代教祖に、書をはじめ、陶芸、織物、能楽など芸術を大事にしていたが、 王仁三郎の没後2年を経て、その遺志を継承して妻・すみ子(二代教主)、その長女・直日(三代教主)や五女尚江、そして現在の五代教主出口 紅(くれない)へと継承されていった。 直日に初めて陶芸の手ほどきをしたのは金重陶陽である。 手ひねりのぐい呑100点を作って窯(瑞月窯)と作業場も整えられ、陶芸への本格的な歩みが始まった。 その翌年には京都の清水にあった本格的な登窯を陶芸家の宇野三吾から寄贈されて、亀岡の「天恩郷」に築かれた。「花明山(かめやま)窯芸道場」という名の作陶場も開設され、花明山窯築窯当初から今熊野蛇ヶ谷に住んでいた石黒宗麿が指導にやって来ており、石黒宗麿が轆轤を教えるなどした。石黒は鉄釉陶器や磁州窯の白化粧、赤絵、呉須絵、練込手など、さらに李朝系や唐津風の焼物などを指導しているが、これによって陶陽や素山の作風にも影響を与えた。 花明山窯  練込水指 こうして金重陶陽はじめ、金重素山・宇野三吾・北大路魯山人・荒川豊藏・河井寛次郎・小山冨士夫・加藤唐九郎など日本の陶芸界を代表する作家が数多く集まるようになり、陶芸文化サロンとなった。 金重家は大本教を…

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藤原雄 ‥‥器の中に“間”とか“遊び”

備前の伊部駅から瀬戸内海に沿って日生に向かうと片上湾が見えてくる。 海側にある耐火煉瓦や炉材の工場に遮られてしまうが、 その反対方向の急坂を上り詰めると藤原啓記念館と雄工房がある。 天気のよい日は豪壮な藤原邸の応接間から瀬戸内海に浮かぶ小島と穏やかな入り江が望め美しい。 藤原雄 備前窯変擂座花入 藤原雄は魯山人ばりの美食家であった。 明治大学の日本文学科に通われていた頃、岡山の陶芸通に紹介されて鎌倉の魯山人のところを訪ねた。 その初対面の日に、「また一人で飯でも食べに来いよ」といわれ、毎週土曜日に出かけ、月曜日に下宿に帰ってくる学生生活を三年間続けた。 「魯山人先生には日本的感性とか、美意識とか、風情、人生を粋に生きるというか、モノを上手に活かしていくことなど陶芸の哲学を学んだ。なにしろ先生の影響を受けたものだから知らず知らずに食いしん坊になった」 と料理の名店や寿司屋、そして魚市場などへもご一緒されたほど魯山人に可愛がられた。 「料理を手伝いながら、器と料理の調和を言葉ではなく厳しい修業として味合わせていただいた。私の生涯に二度とない素晴らしさをもたらしてくれた魯山人先生に感謝しながら日夜、器造りに精進している」 藤原 雄 明治大学卒業後、文学が好きで一時、出版社に勤めていたが、昭和三十年、父・啓が胃潰瘍で倒れ、父の体を案じて帰郷し助手となる。その後、アメリカなどに行って改めて故郷の焼物・備前の土の良さを認識し本格的に陶芸の道に入っている。 「父の助…

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山本陶秀 ‥‥ 轆轤にかけた陶芸人生

明治39年、備前市伊部に生まれた山本陶秀は、燐家の金重利陶苑で職人たちが轆轤で制作するのに憧れ、大正10年に陶芸界に入った。 選んだ修業先は備前で一番大きい窯元だった黄薇堂で、入門した当日に轆轤台に座り、たちまち湯呑を十個、挽きあげたという。 昭和13年、京都の日本芸術院会員・楠部弥弌に師事し、14年には中国四国連合工芸展で優良賞を受賞したのを皮切りに轆轤一筋に精進されて戦中戦後の苦しい時代をのり越えていく。 昭和34年にはブラッセル万国博に出品した緋襷大鉢がグランプリ金賞を受賞するなど内外に認められ陶芸作家として地位を固め、昭和62年には、国の重要無形文化財保持者(人間国宝)となり、永年の苦労が報われた。 山本陶秀肩衝茶入 陶秀の繊細なろくろで造る茶入は気品に溢れ、日本伝統工芸展では毎年のように、大物に挟まれて小さな茶入が堂々と出品されていた。 山陽新幹線が岡山まで開通したのは昭和47年3月である。と同時に空前の備前焼ブームの幕開けである。 新幹線の騒音をまともに受けることになる陶秀宅は、防音装置を施した鉄筋コンクリートの自宅と工房に改築することにした。ところが旧宅の跡地には手榴弾が埋まっていた。 戦時中、金属物資が不足して軍の命令により一八軒あったという備前窯元は手榴弾を作らされた。ほとんどの窯元は型で作ったが、轆轤名人といわれる陶秀は灯火管制の元、轆轤で制作した。 改築の際、この手榴弾が全て掘りおこされ、 「備前陶工は兵器を作らされた時代もあった。二度とこんな…

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